数の見え方

 世の中は色眼鏡をかけると見え方がずいぶんちがうようで、きのうの晩に首相官邸周辺に群がった人々の数は、警察が言うには15000人、集めた側に言わせるとその10倍にふくれ上がる。ウエブで中継を見ていた私の感覚では、神宮球場からはあふれるが、国立競技場にはおさまりそうな感じであった。もちろん現場からは、そういうことはいちばん分からない。
 原発再稼働の問題は、みなさんもお気づきのように電力不足に名を借りた「核問題」にほかならない。福島の事故(東電は「事象」と言いたいのだろうが、ひょっとすると事故どころではなく「事件」である)がむき出しにしたのはメルトダウンした格納容器であるとともに、世界を支配する「核の帝国」の実態であった。これからは「原子力発電所」と呼ばずに「核発電所」と呼びたい。
 来週の金曜日もデモはあるのだろう。今週の情勢によってはさらに多くの人々が集まる可能性もある。しかし、いくら多くの人が集まっても、それがどこかで量的拡大から質的変化を遂げなければ、政府に対する影響力を持たない。それがどこにあるのかを見定めることは難しい。既存の組織を通して動員された人々(あえて「市民」とは呼ばない)でないだけに、そこがアキレス腱である。単なる数だけなら、もう国会でこりごりだ。