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古典主義演劇 明治学院大学「芸術批評論」配布資料

古典主義

*この資料はwikipediaなどから編集したものです。

 

古典主義は、ヨーロッパでギリシャ・ローマの古典古代を理想と考え、その時代の学芸・文化を模範として仰ぐ傾向のこと。均整・調和などがその理想とされる。文脈により異なった意味合いで使用される。ロマン主義の対概念。

 

概要

・イタリアのルネサンスは古典古代を復興しようとする文化運動であった。これは各国に大きな影響を与えた。

・フランス17世紀は古典主義の時代と言われる。古代に範を取った演劇が盛んになり、コルネイユラシーヌモリエールは古典劇の三大作家とも言われる。

・ドイツ文学は18世紀末、ゲーテ、シラーの二人によって頂点を極め、確立されたとされる。これを「ドイツ古典主義」あるいは「ワイマール・クラシック」と呼ぶ。

・建築史では、ギリシア建築・ローマ建築を範とするルネサンス建築、新古典主義建築など、主にオーダーを用いる建築を古典主義の系譜と捉える。

・音楽では、ハイドンモーツァルトベートーヴェンが古典派音楽(古典主義音楽)と言われる。音楽の場合、ギリシア・ローマの古典を復興しようという意識があった訳ではないが、ソナタ形式に見られるように、調和の取れた構成の形式美を重んじている。(クラシック音楽も参照)

クラシック・バレエがロシアで発達した。

ピエール・コルネイユ

ピエール・コルネイユ(Pierre Corneille, 1606年6月6日 - 1684年10月1日)は、17世紀フランス、古典主義の時代の劇作家で、ラシーヌモリエールと並び称される。 代表作の悲劇『ル・シッド』(1637年)により名声を博すが、古典主義で重要視された三一致の法則に従っていないとして非難も浴びた。 

 

初期

コルネイユはルーアンで生まれた。父親は小官吏のピエール・コルネイユ、母親はマルト・ル・パサン。厳格なイエズス会の教育を受け、18歳になると法律を学び始め、法職に就くが成功はしなかった。父親はコルネイユをルーアンの役所に入れた。コルネイユは余暇を利用して最初の戯曲を書いたが、それが何なのかは正確にはわかっていない。わかっているのは、1629年に喜劇『メリット Mélite 』を書いて、旅芸人一座のところに持って行ったということだ。それは気に入られ、一座のレパートリーとなった。それがパリで成功すると、コルネイユは定期的に劇を書き出した。同年、パリに移り、フランス演劇界の人気劇作家の一人になった。『メリット』など彼の初期の喜劇は、流行の先端をゆくパリっ子たちの言葉遣いやマナーを反映させていて、それまでの伝統的なフランスの笑劇とはまったくかけ離れたものだった。コルネイユは自身の喜劇のバラエティさを「紳士階級の会話の1枚の絵」と語った。そして、1635年、彼は最初の悲劇『メデ Médée 』を書いた。

 

『ル・シッド』論争 

コルネイユは彼の代表作といえる『ル・シッド Le Cid 』を書いた。元になったのはスペインの劇作家ギジェン・デ・カストロ・イ・ベルビス(1569年 - 1631年)の書いた『Mocedades del Cid(シッドの青春)』(1621年。一説には1599年とも)で、中世スペインの武人ロドリゴ・ディアス・デ・ビバール(エル・シッド)の伝説に基づいている。

1637年のオリジナルの版では「悲喜劇」という副題がついていた。古典的な悲劇/喜劇の区分けを意図的に無視した、という表明だった。『ル・シッド』は記録的な大ヒットとなった。しかし、激しい批判の的となった。俗に言う『ル・シッド』論争である。リシュリュー卿のアカデミー・フランセーズは劇の成功は認めはしたが、その劇には劇の鉄則から外れていると主張した。劇の鉄則である「時・場・筋の三一致の法則」(劇は1日の間、1つの場所で、1つの行為だけで完結しないといけない)が守られていないというのである。まったく新しい形式の『ル・シッド』は、国家が文化活動を支配しているという主張の具現化でもあった。リシュリューはアカデミーに、これまで通り、フランス語を純化・統一させる一方で、『ル・シッド』の分析を命令した。

一方で、ヒロインの行動が不道徳だと、パンフレットによる糾弾キャンペーンも繰り広げられた。こうした攻撃は、劇場は道徳的教育の場であるという古典的な理論に基づいたものだった。『ル・シッド』に対してのアカデミーの勧告は、ジャン・シャプランの本『Sentiments de l'Académie française sur la tragi-comédie du Cid(悲喜劇ル・シッドに対するアカデミー・フランセーズの意見)』(1638年)に詳しい。また、著名な作家ジョルジュ・ド・スキュデリーは『Observations sur le Cid(ル・シッドについての批判)』(1637年)という劇の中で厳しい批判を行った。

もはや論争が手には負えないものになり、コルネイユはルーアンに戻ることにした。彼が作品の不評のたびに筆を折ることはしばしばだったが、この時がその最初だった。

 

『ル・シッド』論争への返答 

コルネイユが劇作に復帰したのは1640年のことだった。『ル・シッド』論争で、コルネイユは、古典的な劇のルールに細心の注意を払うことにした。その証拠はさっそく作品に現れる。『オラース Horace 』(1640年。リシュリューに献呈)、『シンナ Cinna 』(1643年)、『ポリウクト Polyeucte 』(1643年)はいずれも古典的な悲劇だった。この3作と『ル・シッド』は、一般にコルネイユの四大悲劇と呼ばれている。さらにコルネイユはアカデミーの批判に応えるため、三一致の法則に近づけた『ル・シッド』の複数の改訂版(1648年、1660年、1682年)も作った。そこにはもう「悲喜劇」の副題はついておらず、代わりに「悲劇」となっていた。

1640年代中頃には、コルネイユは絶大な人気を誇るようになっていて、最初の戯曲集も出版された。

 

三一致の法則

(仏:trois unités)は、フランス古典演劇における規則の一つ。三単一の法則とも言う。

16世紀半ばから、アリストテレスの『詩学』に対する解釈の誤りから提唱され始め、最終的にはボワローが古典主義文学の理念をまとめた『詩法』の中で明確な定義をされることになる。

3つの一致(単一)とは、「時の単一」「場の単一」「筋の単一」を言い、劇中の時間で1日のうちに(「時の単一」)、1つの場所で(「場の単一」)、1つの行為だけが完結する(「筋の一致」)べきであるという劇作上の制約である。16世紀後半~17世紀初めのイタリアの演劇論がフランスに移入され、発展し、この法則ができあがった。

ピエール・コルネイユが彼の四大悲劇の1つとされる『ル・シッド』でこの規則を厳密に守らなかったことから、「ル・シッド論争」が起きている。

しかしシェイクスピア劇などエリザベス朝演劇はこの法則を守ってはいない。17世紀フランスの古典演劇はこれを守り、近代市民演劇とされるイプセンストリンドベリチェーホフなどは、場の一致を守ることが多い。日本では謡曲がこの法則に偶然一致し、歌舞伎はそうではないことから、河竹登志夫『比較演劇学』は、これを守る演劇を古典劇、守らない劇をバロック演劇と分類しているが、その区分は曖昧である。戦後米国のエドワード・オールビー『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』などは、たまたまこれを守っている例である。

 

 

ジャン・バティスト・ラシーヌ(Jean Baptiste Racine,1639年12月21日誕生、12月22日受洗 - 1699年4月21日没)は、17世紀フランスの劇作家で、フランス古典主義を代表する悲劇作家である。

シャンパーニュ地方出身。幼少時に両親を亡くし、ジャンセニスムの影響下にある修道院の付属学校で、厳格なカトリック教育を受ける。ラシーヌはこの学校で古典文学に対する教養と、ジャンセニスムの世界観を身につけた。このことは後のラシーヌの作品に深い影響を及ぼした。

その悲劇作品のほとんどは、三一致の法則を厳格に守り、主にギリシア神話、古代ローマの史実に題材をとる。『旧約聖書』に題材をとるものを、ラシーヌは悲劇とせず史劇と呼んだ。

ラシーヌは均整の取れた人物描写と劇的な筋の構成を、アレクサンドラン詩行と呼ばれるイアンボス6詩脚の丹精で華麗な韻文に綴った。後期の『聖書』を題材とする作品を除けば、ラシーヌの劇は、二人の若い恋人を中心とするものが多い。二人は愛し合っているが、女性が王など高位の男性に望まれる、あるいは二人が敵対しあう家系にいるなどして、恋愛は成就しない。この葛藤がラシーヌの悲劇の中心となる。これに第三者の嫉妬、政治闘争などが加わり筋が複雑になり、最終的に二人の恋は成就せず、主人公の死をもって幕が下りる。

またラシーヌは自身の作品を印刷に付し刊行する際、必ず書き下ろしの序文をつける習慣があった。このためラシーヌの作品は、たんに悲劇としての価値のみならず、演劇論としての価値をももつ。ラシーヌの詩論のなかではオスマン帝国皇位継承争いを題材にする『バジャゼ』につけた序文での「悲劇の題材は観客から適切な隔たりをもつものでなければならない。この隔たりは神話や古い歴史のような時間的な隔たりだけでなく、時間的にはあまり遠くないがわれわれの風俗になじみのない距離的な隔たりであってもよい」とするものなどが知られる。

ラシーヌの代表作として今日もなお上演されるものには『アンドロマック』、『ベレニス』、『フェードル』などがある。

なお、彼の肖像はかつて、フランスの50フラン紙幣に描かれていた。

括弧内は順に原題、形式、初演年を示す。

ラ・テバイード 又は 兄弟は敵同士(La Thébaïde ou les frères ennemis, 5幕悲劇、1664年)

アレクサンドル大王(Alexandre le Grand, 5幕悲劇、1665年)

アンドロマック(Andromaque, 5幕悲劇、1667年)

訴訟狂(Les Plaideurs, 3幕喜劇、1668年)

ブリタニキュス(Britannicus, 5幕悲劇、1669年)

ベレニス(Bérénice, 5幕悲劇、1670年)

バジャゼ(Bajazet, 5幕悲劇、1672年)

ミトリダート(Mithridate, 5幕悲劇、1673年)

イフィジェニー(Iphigénie, 5幕悲劇、1674年)

フェードル(Phèdre, 5幕悲劇、1677年)

エステル(Esther, 3幕史劇、1689年)

アタリー(Athalie, 4幕史劇、1691年)

 

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ラシーヌシェイクスピアスタンダール/佐藤正彰訳、青木書店、1939年)

ラシーヌとギリシア悲劇(戸張智雄、東京大学出版会、1967年)

ラシーヌ研究(田中敬次郎、社会思想社、1972年)

ラシーヌと古典悲劇(アラン・ニデール/今野一雄訳、白水社、1982年9月 文庫クセジュ

ラシーヌの悲劇(金光仁三郎、中央大学出版部、 1988年11月)

ラシーヌ、二つの顔(山中知子、人文書院、2005年2月)

ラシーヌ論(ロラン・バルト渡辺守章訳、みすず書房、2006年10月)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

モリエール(Molière、1622年1月15日 - 1673年2月17日)は17世紀フランスの劇作家で、コルネイユラシーヌとともに古典主義の三大作家の一人とされる。

本名はジャン=バティスト・ポクラン(Jean-Baptiste Poquelin)で、パリの裕福な家庭に生まれる。オルレアンの大学で法律を学んだ後、俳優となるが芽が出ず、売れない劇団の座長として地方の旅回りを続けた。その中で喜劇作品を書き始めた。

1658年、パリに戻り次々に作品を上演し、『女房学校』(1662年)が大評判となって劇作家として認められた。モリエールの劇作は宮廷でも支持を得て、喜劇に対する人気、評価を高めた。喜劇作品『人間嫌い』『ドン・ジュアン』『町人貴族』『病は気から』『いやいやながら医者にされ』『スカパンの悪だくみ』などがある。モリエールの死後、コメディ・フランセーズが創設された(1680年)。

 

トンデモ医者 (トンデモいしゃ)(Le Médecin volant、1645年)

バルブイエの嫉妬(バルブイエのしっと)(La Jalousie du barbouillé、1650年)

粗忽な男 (そこつなおとこ)(L'Étourdi ou les Contretemps、1653年)

恋人の喧嘩 (こいびとのけんか)(Le Dépit amoureux、1656年)

恋する医者 (こいするいしゃ)(Le Docteur amoureux、1658年。テキスト現存せず)

滑稽な才女たち (こっけいなさいじょたち)(Les Précieuses ridicules、1659年)

スガナレル:あるいはコキュにされたと思った男 (スガナレル:あるいはコキュにされたとおもったおとこ)(Sganarelle ou le Cocu imaginaire、1660年)

ドム・ガルシ・ド・ナヴァール:あるいは嫉妬深い王子(ドム・ガルシ・ド・ナヴァール:あるいはしっとふかいおうじ)(Dom Gracie de Navarre ou le Prince Jaloux、1661年)

お婿さんの学校(おむこさんのがっこう)(L'École des maris、1661年)

はた迷惑な人たち (はためいわくなひとたち)(Les Fâcheux、1661年)

女房学校 (にょうぼうがっこう)(L'École des femmes、1662年)

グロ=ルネの嫉妬(グロ=ルネのしっと)(La Jalousie du Gros-René、1663年。テキスト現存せず)

女房学校批判(にょうぼうがっこうひはん)(La Critique de l'école des femmes、1663年)

ベルサイユ即興劇(ベルサイユそっきょうげき)(L'Impromptu de Versailles、1663年)

強制結婚(きょうせいけっこん)(Le Mariage forcé、1664年)

ぼうやのグロ=ルネ (Gros-René, petit enfant、1664年。テキスト現存せず)

エリード姫(エリードひめ)(La Princesse d'Élide、1664年)

タルチュフ:あるいはペテン師(タルチュフ:あるいはペテンし)(Tartuffe ou l'Imposteur、1664年)

ドム・ジュアン:あるいは石像の宴(ドム・ジュアン:あるいはせきぞうのうたげ)(Dom Juan ou le Festin de pierre、1665年)

恋こそ名医 (こいこそめいい)(L'Amour médecin、1665年)

人間嫌い (にんげんぎらい)(Le Misanthrope ou l'Atrabilaire amoureux、1666年)

いやいやながら医者にされ (いやいやながらいしゃにされ)(Le Médecin malgré lui、1666年)

メリセルト(Mélicerte、1666年)

パストラル・コミック(Pastorale comique、1667年)

シチリア人:あるいは恋する絵描き (シチリア人:あるいはこいする えかき)(Le Sicilien ou l'Amour peintre、1667年)

アムフィトリヨン(Amphitryon、1668年)

ジョルジュ・ダンダン:あるいは、やり込められた夫 (ジョルジュ・ダンダン:あるいは、やりこめられたおっと)(George Dandin ou le Mari confondu、1668年)

守銭奴(しゅせんど)(L'Avare ou L'École du mensonge、1668年)

プルソーニャク氏 (プルソーニャクし)(Monsieur de Pourceaugnac、1669年)

豪勢な恋人たち (ごうせいなこいびとたち)(Les Amants magnifiques、1670年)

町人貴族 (ちょうにん きぞく)(Le Bourgeois gentilhomme、1670年)

プシシェ (Psyché、1671年)

スカパンの悪だくみ (スカパンのあくだくみ)(Les Fourberies de Scapin、1671年)

エスカルバニャス伯爵夫人 (エスカルバニャスはくしゃくふじん)(La Comtesse d'Escarbagnas、1671年)

学者きどりの女たち (がくしゃきどりのおんなたち)(Les Femmes savantes、1672年)

病は気から (やまいはきから)(Le Malade imaginaire、1673年)