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古代ギリシアの演劇 (芸術批評論A 明治学院大学配布資料)

wikipediaなどからの編集引用です。

古代ギリシアの演劇

 

古代ギリシアの演劇は、紀元前550年ごろから紀元前220年ごろの古代ギリシアで花開いた演劇文化である。都市国家アテナイは当時の文化、政治、軍事の中心地であり、そこでディオニューソス神の祭りであるディオニューシア祭の一部として演劇を上演することが制度化された。そこで生まれたのが、悲劇(紀元前6世紀末)、喜劇(紀元前486年)、サテュロス劇という3つの戯曲のジャンルである。文化的一体感を醸しだすため、アテナイは植民地や同盟国にこの祭りを積極的に広めた。西洋の演劇はアテナイに発祥し、その戯曲は西洋文明全体に大きな影響を与え続けた。

ギリシア悲劇を意味する "tragedy" という単語はギリシア語のtragoidiaに由来し、これは2つの単語tragos、「ヤギ」ode、「歌」を組み合わせた語である。この語源は、古代のディオニューソス信仰の慣習との関係を暗に示している。しかし、その儀礼が悲劇や喜劇の成立にどう関わっているかはよく分かっていない。

 

古典期

紀元前480年、ペルシャ帝国がアテナイ市街を破壊した後、街とアクロポリスの再建の際に劇場が作られ、演劇がアテナイの文化に重要な位置を占めるようになった。この世紀はギリシアの演劇にとっての全盛期となった。ディオニューシア祭は毎年、冬と春に一回ずつ行われ、その最大のイベントとして3人の劇作家の作品をディオニューソス劇場で上演して競わせた。それぞれの劇作家が3本の悲劇と1本のサテュロス劇(神話を主題とする喜劇的なバーレスク)を出品する。紀元前486年からは、喜劇も出品されるようになった。アリストテレスによれば、アイスキュロスが2人目の俳優を追加し、ソポクレスが3人目の俳優を追加したという。古代ギリシア劇では、演者が3人を越えることはなかった。

 

ギリシア劇場

古代ギリシア劇には最大50人ほどのコロス(合唱隊)が付き物で、朝から夕方まで音楽を伴う韻文で劇を上演した。演劇を行う場所は単純な半円形の空間「オルケーストラ (orchestra)」で、そこでコロスが踊り歌う。オルケーストラの大きさは直径が78フィート(約24メートル)前後で、丘の麓の平らな場所を使い、丘の斜面を「テアトロン (theatron)」と呼ばれる観客席とした。後に、テアトロンとオルケーストラと「スケーネ (skené)」と呼ばれる背後の壁を全てひっくるめて "theatre" と呼ぶようになった。コロスのリーダーを choragos と呼び、劇の登場人物と対話できるキャラクターとして劇中に参加することがあった。

合唱隊も含めて大人数が舞台に上がり、観客も最大14,000人ほど収容できるようにするため、劇場はかなり大きなものだった。そうした劇場の建設にあたっては数学が重要であり、設計者は音響も考慮して演者の声が最後列の観客席まで含めた劇場全体に響くようにする必要があった。古代ギリシアの音響技術は現代の最先端と比較しても優るとも劣らないものだった。当初の観客席は木製だったが、紀元前499年ごろに丘の斜面に石のブロックを埋め込むようになり、恒久的なしっかりした席が作られるようになった。そのような観客席を "prohedria" と呼び、神官や最も尊敬される市民がそこに座った。

紀元前465年、劇作家はオルケーストラの背後の壁を使った戯曲を書くようになった。また、そこを演者が衣装を着替える場所としても使った。これをスケーネ (skené) またはシーン (scene) と呼んだ。登場人物の殺害シーンを観客に見せることは不適当とされていたため、登場人物の死はスケーネの後ろから告げられた。紀元前425年、paraskenia と呼ばれる石造りの背後の壁ができ、スケーネを補完するようになった。paraskenia は左右に張り出した長い壁で、出入り口もあったと思われる。paraskenia のすぐ後ろには proskenion がある。proskenion(「スケーネの前」の意)には円柱があり、現代の劇場のプロセニアム(前舞台)に類似している。現代のプロセニアムは観衆と舞台を分離するものである。それはステージの周りのフレームであり、写真フレーム内で演技が行われているように見せる役割を持つ。

ギリシア劇場には、俳優やコロスのメンバーが入場するためのパロドス (parodos) と呼ばれる入り口がある。パロドスは高いアーチでオルケーストラと外を繋いでいる。パロドスとオルケーストラの間の通路をエイソドス (eisodos) と呼ぶ。紀元前5世紀末のペロポネソス戦争のころまでに、スケーネは2階建てになった。その2階部分を episkenion と呼ぶ。劇場によってはオルケーストラに一段高くなっていて、そこで俳優らがしゃべるところがあり、これを logeion と呼ぶ。

 

ギリシア語では仮面を「ペルソナ (persona)」と呼び、アテナイでのディオニューソスの礼拝の重要な要素であり、儀礼や祝典で使われていたと思われる。証拠のほとんどはわずかに現存する紀元前5世紀の壷の絵柄によるもので、神の仮面が樹から吊り下げられ、その下に装飾されたローブが掛かっている絵柄や、サテュロス劇の準備をする役者らを描いた Pronomos の壷などがある。仮面は有機素材で作られていて長持ちするものではなく、使い終わるとディオニューソスの祭壇に捧げられたため、現存していない。いずれにしてもアイスキュロスのころから仮面が使われており、古代ギリシア劇の特徴のひとつとなっている。コロスは登場人物が考えていることを代弁して観客に伝える役目を持ち、12人全員が1人の登場人物に対応し、同じ仮面を付けていた。

 

ギリシア悲劇

ギリシア悲劇は、古代ギリシアで、アテナイのディオニュシア祭で上演されていた悲劇またそれに範を取った劇をいう。ヨーロッパにおいては古典古代およびルネサンス以降、詩文芸の範例とみなされる。

アテナイにおける悲劇の上演は競作の形を取り、競作に参加する悲劇詩人は、三つの悲劇と一つのサテュロス劇をひとまとめにして上演する必要があった。現在まで三つの悲劇がこの形で残っているのは、アイスキュロスのオレステイア三部作のみである。 いずれにしても、題材はギリシア神話やそれに類するものから取られる。聴衆は参加した悲劇詩人のうちで誰のものが最も優れていたかを投票し、優勝者を決めていた。

最も有名な悲劇詩人は、三大悲劇詩人として知られているアテナイアイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスである。プラトンも最初は悲劇詩人を目指していた。古代ギリシア喜劇のアリストパネスは、その作品「蛙」の中で三大詩人の批評をやって見せている。

 

古代における悲劇論では、アリストテレス詩学』(岩波文庫など)が、根本文献である。

近代でギリシア悲劇の成立について記した文献に、フリードリヒ・ニーチェの初期代表作『音楽の精髄からの悲劇の誕生 (悲劇の誕生)』があるが、ニーチェ自身の思想表明が多大で、文献学研究的には、発刊当時も今日もほぼ支持されていない。

 

アイスキュロス

アイスキュロス Aischylos(紀元前525年 - 紀元前456年)は、古代アテナイの三大悲劇詩人のひとりであり、アッティカ悲劇の確立者。代表作はオレスティア三部作。

二十代から作劇を始め、紀元前484年に初の優勝を得てからは、ディオニュシア祭で開催された劇大会で合計13回優勝した。これを伝えられている彼の作品の数と悲劇上演の例で律すれば、五割を超える非常に高い優勝率を誇ったことになる。様式面では、それまでの悲劇が1人の俳優とコロスの掛け合いで進めていたのに対して俳優を2人とする改革を行ったこと、現存する唯一の同時代の事件を扱った作品(『ペルシア人』)を書いていることが知られる。作風については三部作構成を好んで用いたこと、アリストファネスにも揶揄された大言壮語とも言える大胆な比喩と荘重な詩句、ゼウスの正義の称揚が特徴的である。

アイスキュロスの一族もまた作家として有名になった。息子のエウリポリオーンはソフォクレスエウリピデスを破ってディオニュシア祭での優勝を果たし、甥のピロクレスもソフォクレスを破っている。

アイスキュロスは90篇の作品を遺したと伝えられているが、作品が完全な形で現存しているのは、以下の7篇のみである。

「縛られたプロメテウス」

「ペルシア人」

「テーバイ攻めの七将」

 

オレステイア三部作

「アガメムノーン」

トロイア戦争に参加していたギリシア軍総大将アガメムノーンが、イーリオス(トロイア)を陥落させ、10年ぶりにミュケーナイに戻るところから話が始まる。トロイア戦争へ出征する際、アガメムノーンは娘イーピゲネイアを女神への生贄として捧げた。これを怨んだ妻のクリュタイムネーストラー(ヘレネーの姉)は、同じくアガメムノーンに恨みを抱いているアイギストスと深い仲になり、凱旋してきたアガメムノーンおよび、捕虜として連れられてきたカッサンドラーの殺害を図る。

トロイア戦争におけるギリシア側の勝利という大義のためなら、娘の命を奪うこともやむをえないという父アガメムノーンにとっての正義は、愛する娘の命を戦争ごときのために奪ってはならないとする母クリュタイムネーストラーにとっての正義によって倒される。帰還したアガメムノーンと捕虜カッサンドラーが館に入ろうとすると弔いのコーラスが流れ、館の中に消えると断末魔の叫び声が響く。二人の遺体とともに妻クリュタイムネーストラーが現れ、娘を殺した犯人に対する復讐は正義に基づくものであると訴える。

 

「供養する女たち」

アガメムノーンの殺害後、妻のクリュタイムネーストラーは息子のオレステースをミュケーナイから追い出し、娘のエーレクトラーを冷遇していた。こうした中、成人したオレステースがミュケーナイへと帰還し、父アガメムノーンの墓に詣でて、アポローン神に導かれ復讐を誓うところから話が始まる。オレステースは、父の墓場でやはり母への復讐を願う姉エーレクトラーと出会い、母クリュタイムネーストラーと情夫のアイギストスの殺害を図る。

旅人に扮したオレステースは母の館に向かい、オレステースは既に死んだこと、オレステースの骨壺を持ってきたことを伝える。母クリュタイムネーストラーは嘆き悲しみ(これが演技か本心かは観客の判断にゆだねられる)、オレステースを館に招き入れる。オレステースはまずアイギストスを殺害し、ついに母クリュタイムネーストラーを殺そうと近づく。旅人の正体がオレステースと知ったクリュタイムネーストラーは、息子に向かって必死の命乞いを行う。クリュタイムネーストラーは、かつて息子に対して注いだ愛を訴える。しかし、オレステースは、情夫に愛を注ぎ夫を殺害した母クリュタイムネーストラーを責める。それも運命であったと弁明する母に対し、それならここで殺されるのも運命として、オレステースはついに母を殺害する。

こうして、オレステースはアポローンの命じた通り父の敵討ちという正義を果たしたが、その結果、母親殺しという重い運命を負うことになった。母の怨念や、かつて復讐をそそのかした復讐女神(エリーニュース)に襲われる幻覚に苦しみ、オレステースは狂乱状態に陥る。コーラス隊の歌が響きわたる。

 

「慈みの女神たち」

復讐女神(エリーニュース)に付きまとわれるオレステースは、放浪の末にデルポイの神殿にあらわれ、アポローンにすがるところから話が始まる。オレステースはアポローンの指示に従いアテーナイのアクロポリスにある女神アテーナーの神殿に向かい、アテーナーを裁判長として、オレステースを弁護するアポローンと、オレステースを母親殺しとして告発する復讐女神(エリーニュース)の間で裁判が行われる。当時のアテーネーでは直接民主制が行われており、アテーナイ市民12名が陪審員として判決を左右した。

陪審員の判決は、有罪・無罪が半々にわかれるが、裁判長のアテーナーがオレステースを支持したため、オレステースは無罪放免とされる。判決を不服とする復讐女神(エリーニュース)は激高するが、なだめられてアテーナイの慈しみの女神(エウメニデス)となるよう説得されると、エリーニュースたちはこの申し出を受け入れる。こうして、憎しみの連鎖はついに断ち切られ、ギリシア世界に調和と安定がもたらされ終幕する。

 

「救いを求める女たち」

ソポクレス

ソポクレス(ソポクレース、ソフォクレスとも表記、 Sophoklés(紀元前496年頃 - 紀元前406年頃)は、アテナイの悲劇作家、古代ギリシア三大悲劇詩人の一人に数えられる。

紀元前468年以来、大ディオニュシア祭で24回もの優勝を重ねた。劇の作法について数編の論文を著すなど理論面を重視し、ギリシア悲劇というジャンルを完成させた。

悲劇作家として成功し、富裕な市民層に属した。

123編の悲劇を書いたと言われるが、欠けずに現存するのはわずか7編。絶対なる運命=神々に翻弄されながらも、悲壮に立ち向かう人間を描いたものが多い。代表作『オイディプス王』は、ギリシャ悲劇中の珠玉とされ、今日に至るまで西洋文学や心理学に多大な影響を与えている。

ソポクレスにはテーバイ王家に材をとった作品が他に2つ現存している。すなわちオイディプスの娘が登場する『アンティゴネー』と最晩年の作品である『コロノスのオイディプス』である。これらを総称してテーバイ三部作というが、これらは本来の意味での三部作ではなく、別々の機会に書かれたと現在の研究では一般に考えられている。

「アイアス」

「トラキスの女たち」

「オイディプス王」 (紀元前429年 - 紀元前425年ごろ)

テーバイの王オイディプスが国に災いをもたらした先王ラーイオスを殺害した犯人を追及するが、それが実は自分であり、しかも産みの母と交わって子を儲けていたことを知るに至って自ら目を潰し、王位を退くまでを描く。その包み隠すことなき直線的な演劇手法は、アリストテレスの『詩学』をはじめ古くからさまざまな演劇論で悲劇の傑作として評価されてきた。

男子が父親を殺し、母親と性的関係を持つというオイディプス王の悲劇は、フロイトが提唱した「エディプス・コンプレックス」の語源にもなった。

オイディプースがテーバイの王になって以来、不作と疫病が続いていた。クレオーンがデルポイに神託を求めたところ、不作と疫病はラーイオス殺害の穢れの為であるので殺害者を捕らえ、テーバイから追放せよという神託を得た。

そこでオイディプースは、ラーイオス殺害者を捕まえよ、殺害者を庇う者があればその者も処罰するとテーバイ人達に布告を出した。オイディプースはクレオーンの薦めにより、テーバイに住む高名な予言者で目しいのテイレシアースにラーイオスの殺害者を尋ねる事にした。

自らの子に手をひかれオイディプースの前に現われたテイレシアースは、卜占により真実を知ったが、その真実をオイディプースに伝えるのは忍びなく思い予言を隠そうとした。

妻イオカステーは、テイレシアースの予言を気に病むオイディプースを安心させるため、オイディプースに、予言など当てにならないのだと言い、その例としてラーイオスとイオカステーの間に産まれた子供の話をした。ラーイオスとイオカステーはもし子供を作ればその子供がラーイオスを殺すとの神託をその昔受けたが、ラーイオスはポーキスの三叉路で何者かに殺されてしまい、この予言は当たらなかったとオイディプースに伝えた。

しかしながらこの話を聞いたオイディプースはかえって不安に陥った。何となればオイディプースは、過去ポーキスの三叉路で人を殺した事があるからである。

ラーイオスが殺害された際に、そのことを報せた生き残りの従者がオイディプースのもとに連れて来られた。この従者はオイディプースをキタイローンの山中に捨てる事を命じられた従者と同一人物であった。

従者はオイディプースに全てを伝えた。真実を知ったオイディプースは、イオカステーを探すべくイオカステーの部屋を訪れた。するとイオカステーは縊れていた。オイディプースは縄をほどきイオカステーを下ろしたが、時すでに遅く、イオカステーは死んでいた。

罪悪感に苛まれたオイディプースは、狂乱のうちに我と我が目をイオカステーのつけていたブローチで刺し、自ら盲(めしい)になった。彼自身の言によれば、もし目が見えていたなら冥府を訪れたときどのような顔をして父と母とを見ればよいのか、そう感じたのである。

そして自身をテーバイから追放するようクレオーンに頼み、自ら乞食になった。

アンティゴネー」 (紀元前441年ごろ)

父オイディプースが自分の出生の秘密を知り、目を潰した後、イオカステーの兄弟クレオーンに追放されると、アンティゴーネは妹イスメーネーとともに父に付き添って諸国を放浪した(ソポクレース『コロノスのオイディプス』を参照のこと)。

父の死後、テーバイに戻ったが、兄の1人、ポリュネイケースは隣国の助けを借りてテーバイの王位を取り戻すべくテーバイに攻め寄せてくる(アイスキュロス『テーバイ攻めの七将』)。しかし、闘いむなしく、テーバイの七つの門に攻め寄せた軍は悉く打ち破られ、ポリュネイケースは兄弟エテオクレースと相討ちで戦死。

クレオーンは反逆者である彼の屍を葬ることを禁じるが、アンティゴネーは自ら城門を出て、市民たちの見ている前でその顔を見せて兄の死骸に砂をかけ、埋葬の代わりとした。そのため彼女は、クレオーンによって死刑を宣告された。アンティゴネーは牢で自害し、その婚約者であったクレオーンの息子ハイモーンもまた自刃した。

 

エレクトラ

「ピロクテテス」 (紀元前409年)

「コロノスのオイディプス」 (紀元前401年)

 

 

エウリピデス

エウリピデスEuripides(紀元前480年頃 - 紀元前406年頃)は、古代アテナイの三大悲劇詩人の1人。現代にも大きな影響を及ぼしている。代表作は『メデイア』、『アンドロマケ』など。

紀元前455年に『ぺリアスの娘たち』などからなる四部作でディオニュシア祭に最初の出場を果たしたが、それから初の優勝を得るまで14年もかかっている。50年間に及ぶ芸歴の中で92の作品を書き22回の上演をしたとスーダ辞典に伝えられているが、優勝は生前に4回、死後に1回、合わせて5回だけであった。しかし、それをもってエウリピデスが同時代人からの評価を受けていなかったとは言えない。むしろ、『蛙』に表れているように、賞等を決める保守的な層に嫌われたことが大きな原因であると言うべきだろう。

同時代のソポクレスと対照的に、革新的で新思考的であった。様式面では既に縮小傾向にあった合唱隊の役割をさらに小さくしたこと、それに伴って俳優が短い文章によって応酬する場面を多く用いたこと、そして「機械仕掛けの神」を多用したことが特徴である。「機械仕掛けの神」は、これに類するものを含めると現存する19篇のうち11篇で用いられている。しかし、しばしば批判されるように、物語の収集がつかなくなってこの仕掛けに頼ったのではないことは、各作品を見れば明らかである。観客がそれを待ち望んでいたためだけにそれを出現させることもあったということである。

内容面では、作品の主題を神話から取りながらも、その行動においてはもはや神々や英雄というより市井の人間のような人物を描き、細やかな心理描写を得意とした。

 

「アルケスティス」

「メデイア」

『メディア』は、古代ギリシアエウリピデス作のギリシア悲劇。日本においては『王女メディア』のタイトルでよばれることも多い。ギリシア神話に登場するコルキス王女メディアの晩年におこったとされるコリントスでの挿話を劇化したもの。

紀元前431年に古代アテナイのディオニュシア祭で初演され、これとシリーズをなす他の劇作品とともに、第3等賞を得た。1世紀のローマで、この作品に着想を得てセネカが同名の戯曲を書くなど、現代にいたるまで、文学、演劇に影響をあたえ続けた作品である。

コルキスの王女メディアは夫イアソンと共に互いの故郷を捨てコリントスで暮らしていた。だが、コリントス王クレオンが自分の娘婿にイアソンを望み、権力と財産に惹かれたイアソンは妻と子どもたちを捨て、この縁組みを承諾する。

怒りと悲しみに暮れるメディアの元に、クレオンから国外追放の命令が出る。一日の猶予をもらったメディアはイアソンとクレオン父娘への復讐を決意する。

アテナイ王アイゲウスを口説き落として追放後の擁護を約束させたメディアは、猛毒を仕込んだ贈り物をクレオンの娘の元に届けさせ、王と王女を殺害する。更には苦悩と逡巡の果てに、自身の幼い息子二人をも手にかける。すべてを失って嘆き悲しむイアソンを尻目に、メディアは息子たちの死体を抱き、竜車に乗って去っていく。

 

「ヘラクレスの子供たち」

「ヒッポリュトス」

「ヘカベ」

「救いを求める女たち」

「アンドロマケ」

「ヘラクレス」

トロイアの女」

「イオン」

エレクトラ

「タウリケのイピゲネイア」

「アウリスのイピゲネイア」の後日譚である。アウリス港で、アガメムノンは娘のイピゲネイアを女神アルテミスに生贄として捧げざるを得なかった。しかし、人々の眼には儀牲となったようにみえたけれど、実は女神は牝鹿を代りに生贄としてイピゲネイアを助け、彼女をタウロイ人の国タウリケに連れて行って、そこのアルテミス神殿の女祭司にしたのだった。

 黒海の奥のこの辺地では、他国人を捕えるとこれを人身御供として女神に捧げることが掟となっており、イピゲネイアは、女神の女祭司として、その生贄の儀式の最初の浄めの式を務めねばならなかった。それが、自分の血を分けた弟オレステスの浄めの式をやらねばならなくなったのだから皮肉である。オレステスはアポロンの指示にしたがって、タウリケにアルテミスの神像を取りに来たのであった。彼は親友ピュラデスと共に、黒海入り口の難所、シュムプレガデスの岩を越えてはるばるタウリケまで辿り着くが、海岸で土地の者に見つかって捕えられる。かくしてイピゲネイアが、知らずして弟に生贄の浄めをすることになる。いよいよとなったとき、イピゲネイアは妙案を考え出し、姉弟とピュラデスは神像を携えて乗って来た船で遁れる。

 

ヘレネ

「フェニキアの女たち」

「オレステス」

「バッコスの信女」

「アウリスのイピゲネイア」

「レソス」

キュクロプス」(サテュロス劇)

 

詩学 (アリストテレス)

詩学』(しがく)は、文学理論について論じた古代ギリシャの哲学者・アリストテレスの著作。

本作における詩は韻文で、今日の詩とは異なる。当時は散文は盛んでなく、文学作品のほとんどが韻文で書かれていた。

特徴として、「模倣」または「再現」と訳される「ミメーシス」の概念が繰り返し強調されていることがあげられる。

また悲劇(劇詩)を抒情詩や叙事詩などより上位に位置づけていて、文学の最高形態に位置づけている。悲劇は上演を見なくても読むだけで十分であるという考えは、すでに写本が普及していた当時の文化の状況をあらわすに過ぎないという(岩波文庫版の解説より)。