『死ぬほどに愛して』(大橋宏構成・演出)

(いずれ別の形で批評を書きますから、この対話からは関係者の方、引用転載などなさらないでください)

とんぼ氏:黒テントの友人が出演した大橋宏構成・演出の「死ぬほどに愛して」というパフォーミング・アーツを見に行ったよ。まずはツイッターで出演者が前宣伝するのに意識づけされた。で、初日が開いてからその人のツイートが、見に来た人たちの感想ツイートをリツイートしてくるわけだ。その感想が、私も遅ればせながらはせ参じる決め手になった。「難しくて分からない」という感想と「すばらしい」という感想が拮抗していた。
メガネ君:そういうのに食指をそそられるのは分かる。
と:大橋宏さんの演出は早稲田「新」劇場の時代に「夏の夜の夢」を見た気がする。こっちも大学生だったから30年くらい前だ。その後、疎遠になってしまって、大橋さんも劇団を解散して「DA-M」を作ってパフォーマンスに傾斜した。久しぶりに大橋さんの名前を聞いたのは、これもずいぶん前だけどハンブルグの「ラオコーン」という演劇祭のディレクターを鴻英良さんがやったときに、日本から招待したのがDA−Mだったという話。
メ:大橋さんだったら、プロトシアターかい?あすこの雰囲気はぼくも好きだよ。高田馬場の駅前から、今はラーメン屋と立ち飲みばっかり増えたが、いろんな店が並ぶ小滝橋方向へ歩いてくわけだ。シチズンのボーリング場があって、劇団NLTの役者さんが経営してるスナックがあって・・だんだん、さびしくなっていって、路地を入ると住宅地だ。けっこうな時間歩くけど、その間の推移がいい。で、公演の中身はどうだったんだい?
と:これはまず、黒テント出身の田村義明さんが企画してる「荒馬(ラバ)の旅」の公演なんだ。大橋さんも形としては外部のための演出だ。男性3人はダンサーが2人、田村さんはダンサーっぽいけど、元は役者だ。この3人は比較的、大橋さんと近いところで活動をしているようだね。女性は黒テントの女優が1人、元こんにゃく座の歌役者が1名、ノン・ジャンルの歌手が1名だ。いずれも大橋さんとは初顔合わせらしい。
メ:多彩だな。
と:そうなんだ。この多様性がこの作品の魅力として欠かせないだろうな。それに各人の年齢構成も、まあ「若者」から一歩、二歩越えた世代。それぞれ個性的だし、男盛り、女盛りだね。構成要素も多様なんだ。身体パフォーマンスがあり、ダンスがあり、それが即興と構築の両極を往復するから飽きないんだ。それにテクストも断片的に、芝居っぽいせりふや、詩みたいなものや、掛け声や、観客を相手にした対話まである。イメージを突きつけてくるものから、コミカルなもの、ナンセンスなものまであって、多彩だ。さらには「声」だけのヴーォカリゼーション(これも一人ひとりちがう)もある。そして音楽は、もちろん歌もある、しかも一人ひとり唱法がちがう。ギター伴奏を録音で流したり、カラオケ式に伴奏を流したりもする。
メ:何でもありか?
と:ところが感心したのは、これだけの多様な要素やモードが、不思議にゆるやかなつながりを持っていることなんだ。いわば、これだけのモードというか、パレットでパフォーマンスの交響曲を作れるまでに成熟してきた。これは演出家が20年以上築き上げてきた経験の産物だろう。余人には真似できない水準に達している。
メ:テーマがまとまっているからそう思うんだろ?
と:もちろんそうさ。なにしろ「愛」だからな。別の形でいずれ批評文を書くから、今は漠然と考えていることだけ話すけど、「愛」そのものって、どうやって表象できるんだい?
メ:表象不可能なんだよ。
と:このパフォーマンスはそれをやろうとしてるんだ。「恋愛」じゃないよ。恋愛はことばに他ならない。ことばは「愛」じゃない。
メ:聖書と違うな(笑)。
と:「セックス」も「愛」ちはちがう。むしろ「愛」は「欲望」に似ているが、欲望そのものでもない。このパフォーマンスは「愛」そのものの表象めがけて各シークエンスの構成で、けっこう壮大な「絵巻物」を繰り広げてくれるんだ。視線の交錯あり、命令と服従あり、懇願あり、まったりした絡み合いあり、自棄あり、商品としての性あり、ダンスあり、殺意あり、肉体の消耗あり・・・
メ:もういいよ。それを身体とテクストと声と歌でやるんだな。分かりにくいなあ、早く批評を書いてくれよ。