佐藤忠男『長谷川伸論 義理人情とはなにか』

メガネ君:すごい名著を知らずにいた。それを読んだ。佐藤忠男著の『長谷川伸論−義理人情とはなにか』だ。岩波現代文庫に入っている。ある研究会で紹介発表があったので読んでみたら、すごく面白かった。
とんぼ氏:月末に日本演出者協会でやるリーディング公演の下準備だね?(http://www.jda.jp/docs/1108gikyoku_a.pdf)しかし、君みたいなフランス現代派が、あの通俗大衆作家、股旅物や剣豪小説の作家に入れあげるとは、どういう風の吹き回しだい?
メ:黙って読め!と言いたいところだが、要するに長谷川伸という「凡庸な」劇作家に照明をあててみると、日本の近代が一挙に相対化されてしまうということかな。
と:アングラ的や前衛の「反近代」や「前近代」ではないってこと?
メ:そう、ポストモダンまで含めて「反」だの「前」だの「ポスト」だのは、いずれも本家本元の「近代」あっての話。ところが長谷川伸は「近代」を通過せずに、しかも日本の現在を照射してしまう。日本人の人生観、社会観がいまだに組織、ひいては天皇制国家への忠誠を原理にしていささかもゆるぎなく存続しているかということを明かしてしまう。つまり、日本人にとって「掟」とは何か、という問題だ。
と:福島原発事故をめぐる政府、東電、マスコミの対応なんか、たしかにどうして日本はこうなんだ!と忸怩たる思いだったが。事実や真実より「組織防衛」優先だものなあ。みんな原発に「一宿一飯」の恩義があるわけだ。
メ:「ギリシア悲劇における運命の自覚にも相当する」原理だな。だから、今、長谷川伸を考えることはとてもタイムリーなのだ。欧米的な近代とはべつのものとしてあった、日本の「渡り職人」(ルンペン・プロレタリアート)の倫理観が、西洋の博愛、連帯原理と同じような地点にひろがるんだ。そして、長谷川伸の主人公たちは、じつはそういう親分子分の関係から逃げようとしている存在だ。けれども、主人公たちは秩序に「反抗」するわけではない。というか「秩序に反抗しようにも、どだい、秩序のほうは、彼や彼女たちの反抗には正面から取り合ってくれないのである」。
と:三度笠のノマディズム、そして「ツリー構造」からの逃走かい?ドゥルーズを作業仮説にして長谷川伸を読めそうだな(笑)。
メ:そして、すごいのは長谷川伸の後半生の労作である、記録文学的な作品だ。幕末の反幕府民衆軍、相楽総三を取り上げた『相楽総三とその同志』は傑作だ。「明治維新とは、維新勢力が民衆のエネルギーを巧みに活用しつつ、結局は民衆をだまし、排除することによって遂行された革命であったこと」を、そうとは意図せずに暴いてしまうのだ。それから『日本捕虜志』だ。日露戦争まで、日本人が敵国の戦争捕虜をどのように人道的に、武士道的美風で処してきたかを延々と書いている。長谷川伸はひたすら弱きものの救済、名誉回復をめざすのだが、政府から見ると左翼とは逆の意味で、邪魔である。もうひとつ、敵討ちの研究『日本敵討ち異相』もすごいぞ。単なる敵討ちの事例報告なのだが、殺人者を死刑にする権利を持つのは、被害者か国家か、という問題設定のもとで読むと、根源的な問題を提起される。
と:ご本人には全然、そういう政府批判的な意図はないんだろ?
メ:全然ない。ないから政府にしては扱いが難しいし、こちらとしては痛快なんだ。まあ、もう少しいろいろ読んでみるがね。

長谷川伸論―義理人情とはなにか (岩波現代文庫)

長谷川伸論―義理人情とはなにか (岩波現代文庫)