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三塔舎日誌

2月7日(金)

 ゆうべ市川妙典のイオンシネマで見たロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの舞台「リチャード二世」のことを引き続き書いておきたい。

 私は英語、英文学の専門家ではないからシェイクスピアの英語にそれほど親しんでいるわけではない。しかし、シェイクスピアの演劇にとってその英語せりふが不可欠なものであることは承知している。だから英語でせりふが聞けて日本語字幕がスクリーンに出るというこの形はとても有意義であった。それはまるでジェットコースターに乗っているようなスリリングな体験であった。シェイクスピアの演劇言語はあたかも言語の運動性、身体性そのものが劇であるかのように感じられた。

 だからこの舞台の俳優たちは時には棒立ちのまま、必要以上に動かない。それでも演劇的に何の遜色もないのだ。

 私は日本のシェイクスピア上演でもこういう俳優の身体性はよく見られるように思う。けれども日本語に翻訳されたシェイクスピアは本来の詩的ダイナミズムを失っている。その結果、せりふにも身体にも劇を推進させる力が希薄になってしまうのだ。おそらく日本のシェイクスピア翻訳でもっとも詩的なダイナミズムを感じさせるのは福田恒存の訳だろう。平易なシェイクスピア訳の代表である小田島訳は、そもそも出口典雄のシェイクスピアシアターのために訳されたものだけに、せりふのダイナミズムを身体の運動性へと変換するためのエクリチュールだと思われる。

 したがってなめらかな文体の翻訳を用いて俳優が棒立ちになるシェイクスピアは改められるべきであろう。

 ロイヤル・シェイクスピア・シアターの舞台が注目されるのは、この作品についてウィキペディアに述べられているよう、「王のふたつの身体」を強烈に描きだすことに成功している点である。王の「聖性」と「人間性」の相克と対比をこれほどまでに見せてくれる演出はないであろう。そして王権とは輝かしいものでもあり、またバカくさいものでもある。強いものであり、はかないものである。そういう二重性が舞台の上にくっきりと浮かび上がるとき、シェイクスピアは最大の魅力を発揮する。

 都知事選挙なんかどうでもよくなってきた・・いや、こりゃイカン。

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 夕方から代々木八幡で打ち合わせ。隠れ家的な・・

a9 dishes&wine│代々木八幡にある魚とワインの店