明治学院大学 芸術批評論配布資料 リアリズム演劇の系譜
リアリズム演劇の系譜 1
序)日本にはない演劇だった。明治以降に西洋演劇として移入された「新劇」。現実を「再現」する演劇。その歴史的系譜は?
1) 西洋近代劇の従来的図式(ナショナリズム史観)
・ →スペイン・バロックの過剰性・奔放性/エリザベス朝演劇 (シェイクスピア)
・ →理性による抑制、の結果17世紀古典主義の開花(=コルネイユ、ラシーヌ、モリエール)
<古典悲劇>
・ 3単一の法則(時の単一、場所の単一、行為の単一)
・ 5幕12音節韻文劇
* ラシーヌによる厳格な様式化と演劇言語の純化の極地。
* 「行き過ぎ」を笑うモリエール喜劇
* モリエール、ラシーヌによる「フランス語劇」の完成(フランス文化の確立)
* ヴェルサイユ宮殿=世界の中心
2)疑念
=1)はナショナリズム史観として、ナポレオン時代ないし第3共和制で確立した可能性大
・ 17世紀演劇への総合的なまなざし→スペインの模倣があまりに多い。
・ ルネサンスにおける古代ギリシアの模倣的復活、はバロック・オペラが担ったのであって、演劇はむしろ下位ジャンルではないか? 言語劇を優位におく逆転にこそナショナリズムを見る。
・ スペイン・バロックから18世紀の非=悲劇演劇論の系譜にこそ、近代演劇の流れがあるのではないか?
3)「ブルジョワ劇」の系譜
・ 古代に範を仰ぐことの拒否→フランスでの「新旧論争」
・ 普遍演劇から国民演劇へ(ドイツ、イタリアへ影響)
・ リアリズムが規範になっていく
4)スペイン・バロック
ロペ・デ・ヴェガ(16〜17世紀)
・ 行為の単一は遵守したが、場所の単一、時の単一は無視した。
・ 悲劇/喜劇の混交=「悲喜劇」を提唱(涙と笑いのドラマツゥルギー)
・ ギリシアの模倣よりも、観客の趣味を優先;「観客」=新興ブルジョワジー(貴族の「血の論理」に「金の論理」で対抗)
5)18世紀啓蒙時代の「演劇」
・ 演劇論 ディドロ、ルイ=セバスチャン・メルシエ
・ 「倫理」と演劇の問題。悪を描くな!(cf.明治初期の歌舞伎改良)。古代悲劇は殺人と邪な愛ばかり!→演劇による市民道徳、「人間性(ヒューマニズム)」の育成
→「市民」の育成、人権宣言の思想
・ 新興ブルジョワジーには「悲劇」が絵空事に見える。文化的覇権の交替。→リアリズムを要求する感性。英雄、王、神話としての人物ではなく、市井の等身大の人間を描いた国民演劇を作ろう。
・ 「リアリズム」という語を用いて、悲劇と喜劇の融合を説いたのはヴォルテール。
6)ディドロ Discours de la poésie dramatique
・「理性」から「感情」へ。「感性」に訴えかけることで道徳を育てなければ。
・求められるドラマ:美徳/正義に対する試練の数々→美徳/正義の勝利(⇔悲劇の文化)
【雑】悲劇を必要とする文化と、正義劇を必要とする文化がある。私たちの居る地点は後者だ
ろう。刑事もの、戦隊系、幸せへの一代記などみな、このパターン。
・ ドラマを通して、観客が一体的な社会を形成できる。
7)ルソー 「ダランベールへの手紙」
・ほかの芸術とは違って、演劇は「危険」である。イリュージョンを用いた「再現」だからだ。
・ 演劇こそ「悪」。(プラトンと同じ考え)
・ ルソーは「再現」を退けて、民衆の「祝祭」(たとえばパレード)を賞賛する。
・ 演じる側と見る側の峻別も、ルソーは嫌う。
リアリズム演劇論(2)
−ディドロの演劇論を中心に−
1.「ドラマ」dramaとは?
・ギリシアではdrama=action
・ メルシエやディドロによって旧来の劇(とりわけ「悲劇」)に対立する劇の呼び名として用いられた。
dramatiqueという形容詞の形で頻出。
・ ディドロは「ドラマ」を「悲劇」と「喜劇」の中間タイプ、混合タイプと考えた。
・ このときに同時にヴェガ型の「悲喜劇」も斥けられている。
2.「ドラマ」対「古典」
・「真実」=ドラマ VS 「真実らしさ」=古典
・「日常」=ドラマ VS 「例外」=古典
・「特殊」=ドラマ VS 「普遍」=古典
・ 題材の同時代性
・ メルシエは「社会の悲惨」を描くとまで言っている
・「散文」=ドラマ VS 「韻文」=古典
・「会話」=ドラマ VS 「長台詞」=古典
・「時の単一」、「場所の単一」は放棄。(「出来事の単一」のみ尊重)
<イリュージョン>
・ 「第4の壁」(=観客の存在を前提としない舞台構成、演技)
・ 「幕」17世紀からしだいに普及。18世紀に一般化した。
・ 聴覚型の舞台芸術から、視覚型の舞台芸術への転換?
3.リアリズムと俳優の問題
・ 舞台前面で動かずに台詞を朗誦する(古典悲劇)
・ 舞台横のベンチ席が取り払われて、演技空間が広がった。
・ イタリア演劇の、生き生きした運動性。17〜18世紀。
<ディドロ>
・ 「ことば」に「動作」の力を対置させた。と、同時に「ことば」「動作」「音楽」の3要素から舞台を構成する視点を明らかにした。加えて「ダンス」もディドロの考えには入っている。
・ 舞台上の人物の構成、配置にも言及している。
『俳優についての逆説』
・ プラトン的な「俳優嫌悪」(嘘を演じる)に対抗する理論。incarnationの理論(なりきり型演技)
=「演じられる人物」と「演じる人間」の感情の一致。(ルイジ・リッコボーニ)
・ ルイジ・リッコボーニの息子、フランソワ・リッコボーニは「演じられる人物」の感情は、「演じる人間」の俳優としてのテクニック(非同化的)によって達成される、と主張。
・ ディドロもこの考え方を支持し、演技におけるinsensibilité「無感情」を主張。感情過多の演技が演劇を凡庸にすると言う。「自然」⇔「俳優」。すべての演技的感情は、俳優によって研究されうる技術である。
・ イリュージョンを発生させる技術。