ルネサンス演劇 明治学院大学 芸術批評論A 配布資料

*この資料はwikipediaなどを編集したものです。

 

ルネサンス期の演劇

 

概観

宗教改革以降、人間の世俗的な姿を描く演劇が現れ始めた。また、ラテン語で書かれていたアリストテレスの『詩学』が翻訳され、劇、戯曲の理論化が進んでいった。

ルネサンス期には建築技術も発展し、現代的な意味での「劇場」や「舞台美術」の原型が形作られ始めた。 

 

イタリア

15世紀のイタリアでは、『詩学』を理論の基礎においた新古典主義演劇が生まれた。現代にまで続く様々な演劇の理論や様式が、この時代に形作られた。プロセニアム・アーチと呼ばれる舞台と客席を区切る額縁が生まれたのも、ルネサンス期のイタリアである。16世紀にはオペラが誕生し、独自の発展を遂げていった。

イタリアで発生した新古典主義以外の演劇の潮流としては、仮面即興劇のコメディア・デラルテがある。コメディア・デラルテは幅広い層に支持され、ヨーロッパ各国の演劇人に多大な影響を及ぼした。

 

イギリス

16世紀後半、エリザベス1世の統治時代、ロンドンでは独自の劇場文化が花開いた。新古典主義演劇の観客は貴族が中心だったが、ロンドンの劇場では一般の民衆も貴族も同時に一つの劇場で観劇することが多かった。劇作家は工夫を凝らし、あらゆる階層の人に受け入れられるような戯曲を書く必要があった。

この時代のイギリスでは、クリストファ・マーロウ、ベン・ジョンソンウィリアム・シェイクスピアなどの劇作家が活躍した。1640年に起こったピューリタン革命では、劇場は閉鎖・破壊され、ヨーロッパの注目を集めたロンドンの演劇文化はいったん幕を閉じることとなった。この時期のイギリス演劇は「エリザベス朝演劇」と呼ばれている。

 

フランス

フランスの演劇は、ルネサンス期に萌芽が見られる。エチエンヌ・ジョデルの『囚われのクレオパトラ』(1553年)、ジャン・ド・ラ・ペリューズの『メデイア』(1556年)は、フランス悲劇の最も初期のものである。また、喜劇では、ピエール・ド・ラリヴェらが、イタリア作品の翻訳や翻案を通じて基礎を整えた(フランス・ルネサンスの文学#劇作品も参照のこと)。こうした土台の上に、17世紀以降、本格的にフランス演劇が発展していくのである。

 

スペイン

17世紀前半のスペインは、ティルソ・デ・モリーナ、ロペ・デ・ヴェガやカルデロン・デ・ラ・パルカら劇作家の活躍により、「スペイン演劇の黄金時代」と呼ばれている。ロペ・デ・ヴェガは2000以上の戯曲を執筆したと言われており、観客の感情を揺さぶるドラマ作りを得意とした。このため王侯貴族のみならず、一般民衆にもその劇が受け入れられた。

 

プロセニアム・アーチ

プロセニアム・アーチ(英: proscenium arch)は、客席からみて舞台を額縁のように区切る構造物をいう。そのためこれによって縁取られた舞台を額縁舞台と呼ぶ。またこの構造物から派生し、演技空間を規定する概念語としてももちいられる。

イタリア、ヴィチェンツァのテアトロ・オリンピコ16世紀後期)には、最初期のプロセニアム・アーチがみられる。プロセニアム・アーチの明確な成立を、同じくイタリア、パルマのテアトロ・ファルネーゼ(17世紀初頭)とする説もある。

 

テアトロ・オリンピコ teatro olimpico(ヴィツェンツア、1580

古代ローマの円形劇場を復興させた劇場です。ただし、舞台側にはパースペクティブ(遠近法)を用いた舞台セットを常設するために正面の席を多く作る必要があり、半円を扁平する工夫がなされました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プロセニアム・アーチの存在はそこで上演される演劇に多大な影響を与えた。舞台装置の面では、アーチにとりつけられる幕が、おおがかりな舞台転換を容易にするなど様々な効果をもたらした。多幕ものの戯曲が書かれるようになったのも、劇場に幕が登場してからだという説がある。また、アーチの裏側の左右に副舞台が設けられ、大きな舞台装置を隠すことも可能になった。さらにプロセニアム・アーチは舞台上部にとりつけられた照明装置や、上から吊り下げる舞台装置などを隠す役割も果たした。

これにより、それまで簡素なものが中心だった舞台装置はより華美になっていった。

 

ルネサンス期の屋外型張り出し舞台では、俳優が直接観客に語りかけるという形式もあった。例えばシェイクスピアが活躍していた時代、イギリスの劇場は、舞台は観客のいる空間に張り出しており、複数の方向から観劇できる形式のものが主流だった。ピューリタン革命によってイギリス・ルネサンス演劇はいったん中断する。そして王政復古期に再開した際には、シェイクスピアの時代のような張り出し舞台は影をひそめ、フランスやイタリアの影響を受けたプロセニアム・アーチを持つ劇場が主流になっていく。しかしイギリスの場合、幕を下ろした際に幕の前で俳優が演技するための張り出し部分(エプロン)も設けられた。

 

遠近法の数学的基礎

 1400年代初め、建築家ブルネレスキは鏡面にフィレンツェの建築の輪郭を写し取り、遠近法を幾何学的な手法で実証することに成功した。かれはあらゆる建築物の輪郭が、すべて地平線に集約されることに気付いた。そこで彼はサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の、当時未完成であったサン・ジョバンニ洗礼堂を正確な透視図法で描写し、洗礼堂入り口に面してその絵画を置き、相対する位置に鏡を設置した。絵画には小穴が開けられており、絵画の裏からその小穴を覗くと正面の鏡に「未完成であるはずの」洗礼堂内部が映し出されたという。それは本物と見まがうばかりであった。

そのあとすぐフィレンツェのあらゆる画家は幾何学的な透視図法を利用し始めた。中でもドナテッロが「キリストの誕生」で描いた、厩舎のチェック模様の床は特筆されるものである。それは厳密には正確さを欠いていたが、幾何学的な透視図法の基本原則に沿って描かれたものであった。直線はすべて消失点へと収束し、距離によって狭まる直線幅は正確な描画が行われていた。この手法は15世紀西洋美術において不可欠なテクニックとなった。遠近法によって、それまでバラバラな要素の組み合わせだった絵画が、一つの統一された場面を表現できるようになった。

実作としては、ギベルティの彫刻レリーフ(1425 - )やマザッチョの描いた絵画(1426 - )が最も早いものである。透視法によって三次元の世界を二次元の世界に移しながら、奥行きのある表現が可能になった。

フィレンツェでは遠近法を利用した芸術が急速に開花し、ブルネレスキなどその数学的理論を理解する画家もいたが、それをおおっぴらにすることはなかった。彼は友人に数学者のトスカネッリがおり、それも数学の理解の一助になったと思われる。数十年後ブルネレスキの友人であり人文学者のアルベルティは透視図法の詳細な論文『絵画論』(1435年)を書いている。この論文の最大の功績は円錐図法の小難しい数式を示すことではなく、投影面とそこを通過する光点の道筋を公式化・理論化したことだった。かれは2つの相似三角形と昔ながらのユークリッド幾何学を用いて、投影面への座標を算出することが出来ることを示した。

1474年、ピエロ・デラ・フランチェスカはその著作で視野内の全ての物体に遠近法を適用する手法を示した。アルベルティの数学的な解説をよりわかりやすく、図入りで解説したのも彼の著作が最初である。 フィレンツェで発見された遠近法の原理はしばらくこの地を出ることが無く、イタリアで起こっているこの大発見が他の国の画家にも広まるのはもう少し後になる。

 

演技の面では、プロセニアム・アーチに囲まれた垂直面(舞台前面)が、舞台と客席とをはっきりと区切る「第四の壁」として意識される。観客は舞台という閉じた空間で行われていることを、透明な第四の壁をとおして見ることになる。このような演技空間では、俳優は観客があたかも存在しないかのようにふるまう。

プロセニアム・アーチの出現によって、演技の質はもちろん戯曲や演出、そして観劇体験の質も大きく変わっていった。

プロセニアム・アーチは舞台と観客を区切るものである。プロセニアム・アーチのない舞台では、観客と俳優は同空間に位置しており、観客は俳優の演劇をより身近なものとして味わうことができる。また、舞台上の劇世界は観客と俳優によって共有され、なんらかの相互作用が生まれやすい。

これに対しプロセニアム・アーチのある舞台では、観客と俳優はそれぞれ異なる空間に位置していると言える。全ての観客は基本的に一方から、プロセニアム・アーチという額縁を通して劇を見る。座る位置による見栄えはそれほど変わらず、それ故にアーチのない劇場よりも遙かに多くの観客席をつくることが可能となる。また舞台上の劇世界は、プロセニアム・アーチという額縁を通した絵画的・客観的なものとして提示される傾向が強まる。

 

イギリス・ルネサンス演劇

イギリス・ルネサンス演劇(イギリス・ルネサンスえんげき、English Renaissance theatre)とは、ルネサンス期のイギリス、特に宗教改革から1642年の劇場閉鎖までのあいだに書かれた演劇作品のことである。一般にエリザベス朝演劇とも呼ばれるが、これは不正確な呼称である。イギリス・ルネサンス演劇には、ウィリアム・シェイクスピアをはじめとする多くの著名な劇作家の作品が含まれる。

イギリス・ルネサンス演劇はしばしば「エリザベス朝演劇」とも呼ばれる。厳密にいうならばこれはエリザベス1世の治世(1558 - 1603年)にイギリスで執筆・上演された戯曲のみを指す。したがって、エリザベス朝演劇は同じくイギリス・ルネサンス演劇に含まれる「ジェイムズ朝演劇」(ジェームズ1世の治世1603 - 1625年の演劇作品)や「チャールズ朝演劇」(チャールズ1世の治世1625 - 1642年の演劇作品)とは区別されるものである。しかし一般には、宗教改革から1642年の清教徒革命による劇場閉鎖までのあいだにイギリスで書かれた演劇作品全般を意味する用語として、つまりジェイムズ朝演劇やチャールズ朝演劇をも含めて、エリザベス朝演劇の呼称がイギリス・ルネサンス演劇そのものと同義的に用いられている。

規模も大きく興行的にも成功を収めた公設劇場の相次ぐ設立こそ、イギリス・ルネサンス演劇に成功をもたらした決定的要因であった。この動きに先鞭をつけたのは、ジェームズ・バーベッジが1576年にショアディッチに設立したシアター座である。このシアター座につづいて、1577年にはカーテン座がすぐ近くに建設された。ローズ座(1587年設立)、スワン座(1595年)、グローブ座(1599年)、フォーチュン座(1600年)、レッド・ブル座(1604年)といった公設劇場がロンドンに次々と設立されるにつれ、演劇の隆盛は一時的な現象ではなく、確立された恒常的なものとなっていった。

20世紀後半に発見されたローズ座とグローブ座の建築基盤に関する考古学的資料から、ロンドンの劇場はそれぞれ個性的な設計であったことが見て取れる[3]。しかし、劇場としての機能は共通していることから、全体的には類似した間取りが必要となった。公設劇場は3階建てで、中央の広間を取り囲むような形で建てられた。たいていは全体的に丸みがかった多角形の設計で(レッド・ブル座と最初のフォーチュン座は四角形だったが)、中央を見渡せるように内向きになった桟敷席がステージの方へ張り出すようにして3層に重なり、舞台は正面と両脇の3方向を客席が囲み、俳優の出入り口や楽団員の座席としては後方だけが使用された。ステージ後方の桟敷席は、『ロミオとジュリエット』においてバルコニーとして使用されたり、『ジュリアス・シーザー』において役者が観客に向かって演説を行なうための場所として用いられたりすることもあった。

 

 

 

 

この時代の戯曲には、大きく分けて史劇、悲劇、喜劇という3つのジャンルがある。

史劇とは、イギリスやヨーロッパ諸国の歴史を題材とした戯曲である。『リチャード三世』や『ヘンリー五世』など、歴代国王の生涯を描いたシェイクスピアの史劇が代表的な作品である。他の劇作家の作品としては、クリストファー・マーロウの『エドワード二世』("Edward II")やジョージ・ピールの『エドワード一世』("Famous Chronicle of King Edward the First")がこのカテゴリに含まれる。

悲劇も一般受けのよいジャンルであった。なかでもマーロウの悲劇作品『フォースタス博士』("The Tragical History of Doctor Faustus")や『マルタ島のユダヤ人』は非常に人気があった。観客が特に好んだのはトマス・キッドの『スペインの悲劇』("The Spanish Tragedy")のような復讐劇であった。ジョン・ウェブスターの『マルフィ公爵夫人』("The Duchess of Malfi")にいたっては、全篇これ血みどろの惨劇のオンパレードである。

喜劇も一般的だったジャンルである。この時期に発達したサブジャンルとして、市民喜劇(都市喜劇とも)がある。これはローマの新喜劇にならってロンドンの市民生活を諷刺的に描いたものである。トマス・デッカーの『靴屋の祭日』("The Shoemaker's Holiday")やトマス・ミドルトンの("A Chaste Maid in Cheapside")が例としてあげられる。

これらの戯曲が発展してゆく中で時代に取り残される形にはなったが、牧歌劇("The Faithful Shepherdess"1608年)や道徳劇("Four Plays in One"1608 - 1613年)といった古い形式が影響を与えることもあった。また仮面劇と同様、悲喜劇の新しい混交型サブジャンルが1610年代以降(ジェームズ朝とチャールズ朝を通じて)開花した。

 

ウィリアム・シェイクスピアWilliam Shakespeare, 1564426日(洗礼日) - 1616423日(グレゴリオ暦53日))は、英国の劇作家、詩人であり、イギリス・ルネサンス演劇を代表する人物でもある。

シェイクスピアの戯曲の多くは、洋の古今東西を問わず世界全体の中で最も優れた文学作品として評価されている。1623年にジョン・ヘミングスとヘンリー・コンデルによって編纂されたファースト・フォリオにおいて、これらの作品は悲劇・史劇・喜劇という3つのジャンルに分けられた。シェイクスピアの作品は、そのすべてが多くの国の言葉に翻訳され、各地で上演されている]

当時としては一般的なことであるが、シェイクスピアの戯曲は他の劇作家の作品に依拠しているものや、古い説話や歴史資料文献に手を加えたものが多い。例えば、おそらく『ハムレット』(1601年ごろ)は現存していない先行作品(『原ハムレット』と呼ばれる)を改作したものであることや、『リア王』が同じ題名の過去の作品を脚色したものであることなどが研究の結果明らかとなっている。 また歴史上の出来事を題材としたシェイクスピアの戯曲は、古代ローマや古代ギリシアを舞台としたものと近世イングランドを舞台としたものの2種類に大別されるが、これらの作品を執筆するにあたり、シェイクスピアが資料として主に用いたテキストは2つある。前者の材源はプルタルコスの『英雄伝』(トマス・ノース (Thomas North) による1579年の英語訳)であり、後者が依拠しているのはラファエル・ホリンシェッドの『年代記』("The Chronicles of England, Scotland, and Ireland"1587年の第2版)である。『年代記』は史劇だけでなく『マクベス』や『リア王』の素材ともなっている。 またシェイクスピアは同時代の劇作家(シェイクスピアと同年の生まれだが早くから才能を現していた)クリストファー・マーロウの文体を借用していると考えられることもある。 シェイクスピアの作品の中でも、劇作法、テーマ、舞台設定などの点からみて最も独創的といえるのは『テンペスト』である。

シェイクスピアの劇作家としての活動は1592年頃から始まる。フィリップ・ヘンズロウの日記(当時の劇壇の事情を知る重要な資料として知られる)に『ヘンリー六世 第1部』と思われる戯曲が15923月から翌年1月にかけて15回上演されたという記録が残っているほか、同じく1592年にはロバート・グリーンの著書に新進劇作家シェイクスピアへの諷刺と思われる記述がある。これらが劇作家としてのシェイクスピアに関する最初の記録である。

最初期の史劇『ヘンリー六世』三部作(1590-92年)を皮切りに、『リチャード三世』『間違いの喜劇』『じゃじゃ馬ならし』『タイタス・アンドロニカス』などを発表し、当代随一の劇作家としての地歩を固める。これらの初期作品は、生硬な史劇と軽快な喜劇に分類される。

ペストの流行により劇場が一時閉鎖された時期には詩作にも手を染め、『ヴィーナスとアドーニス』(1593年)や『ルークリース陵辱』(1594年)などを刊行し、詩人としての天分も開花させた。1609年に刊行された『ソネット集』もこの時期に執筆されたと推定されている。1595年の悲劇『ロミオとジュリエット』以後、『夏の夜の夢』『ヴェニスの商人』『空騒ぎ』『お気に召すまま』『十二夜』といった喜劇を発表。これら中期の作品は円熟味を増し、『ヘンリー四世』二部作などの史劇には登場人物フォルスタッフを中心とした滑稽味が加わり、逆に喜劇作品においては諷刺や諧謔の色付けがなされるなど、作風は複眼的な独特のものとなっていく。

1599年に『ジュリアス・シーザー』を発表したが、この頃から次第に軽やかさが影をひそめていったのが後期作品の特色である。1600年代初頭の四大悲劇といわれる『ハムレット』『マクベス』『オセロ』『リア王』では、人間の実存的な葛藤を力強く描き出した。また、同じころに書いた『終わりよければ全てよし』『尺には尺を』などの作品は、喜劇作品でありながらも人間と社会との矛盾や人間心理の不可解さといった要素が加わり、悲劇にも劣らぬ重さや暗さをもつため、19世紀以降「問題劇」と呼ばれている。

『アントニーとクレオパトラ』『アテネのタイモン』などののち、1610年前後から書くようになった晩期の作品は「ロマンス劇」と呼ばれる。『ペリクリーズ』『シンベリン』『冬物語』『テンペスト』の4作品がこれにあたり、登場人物たちの長い離別と再会といったプロットの他に、超現実的な劇作法が特徴である。長らく荒唐無稽な作品として軽視されていたが、20世紀以降再評価されるようになった。

シェイクスピアは弱強五歩格という韻律を好んだ。『ウィンザーの陽気な女房たち』のように散文の比率が高い戯曲もある。

 

史劇

ヘンリー六世 第1部(Henry VI, Part 11589 - 1590年)

ヘンリー六世 第2部(Henry VI, Part 21590 - 1591年)

ヘンリー六世 第3部(Henry VI, Part 31590 - 1591年)

リチャード三世(Richard III1592 - 1593年)

ジョン王(King John1594 - 1596年)

リチャード二世(Richard II1595年)

ヘンリー四世 第1部(Henry IV , Part 11596 - 1597年)

ヘンリー四世 第2部(Henry IV, Part 21598年)

ヘンリー五世(Henry V1599年)

ヘンリー八世(Henry VIII1612 - 1613年)

 

悲劇

タイタス・アンドロニカス(Titus Andronicus1593 - 94年)

ロミオとジュリエットRomeo and Juliet1595 - 96年)

ジュリアス・シーザーJulius Caesar1599年)

ハムレットHamlet1600 - 01年)

トロイラスとクレシダ(Troilus and Cressida1601 - 02年)P

オセロー(Othello1604年)

リア王(King Lear1605年)

マクベスMacbeth1606年)

アントニーとクレオパトラ(Antony and Cleopatra1606 - 1607年)

コリオレイナスCoriolanus1607 - 1608年)

アテネのタイモン(Timon of Athens1607 - 1608年)

 

喜劇

間違いの喜劇(Comedy of Errors1592 - 1594年)

じゃじゃ馬ならしTaming of the Shrew1593 - 1594年)

ヴェローナの二紳士(The Two Gentlemen of Verona1594年)

恋の骨折り損 Love's Labour's Lost1594 - 1595年)

夏の夜の夢(A Midsummer Night's Dream1595 - 96年)

ヴェニスの商人The Merchant of Venice1596 - 1597年)

空騒ぎ(Much Ado About Nothing1598 - 1599年)

お気に召すまま(As You Like It1599年)

ウィンザーの陽気な女房たち(The Merry Wives of Windsor1597年)

十二夜Twelfth Night, or What You Will1601 - 1602年)

終わりよければ全てよし(All's Well That Ends Well1602 - 1603年)P

尺には尺を(Measure for Measure1604年)P

ペリクリーズ(Pericles, Prince of Tyre1607 - 1608年)R

シンベリン(Cymbeline1609 - 10年)R

冬物語(The Winter's Tale1610 - 1611年)R

テンペスト(The Tempest1611年)R

二人のいとこの貴公子(The Two Noble Kinsmen1613年)R