01-008 文菊さんの独演会へ

 昨年の秋口から、ふとしたきっかけで落語を生で聴くことが多くなった。それまでも落語は嫌いではなかったし、昭和の名人と称される噺家の高座を録音や動画で楽しむことがなかったわけではない。けれども、毎月のように欠かさず寄席に通ったり、特定の噺家の独演会を楽しみにしたり、というような落語ファンではまったくなかった。

 落語ファン、寄席ファンという人々が世の中にいるのはよいことだと思う。なにしろ落語という語り芸ほど高い水準に達している舞台芸術は世界にそうあるわけではないと思うわけで、そういうものが好きな人は芸術を愛する人だし、それにきっと江戸の粋にいくばくかの憧れもあるのだろうから、グローバル市場主義者の権化みたいな悪い人はいないんだろうなあと思ったりもする。フランス演劇を引き合いに出せば、落語は日本のモリエールだ、と思う。いや、モリエールはフランスの落語だと言ったほうがわたしの気持ちにピッタリくる。          

ところが芸の道は厳しいものなのか、当節の大御所と呼ばれる噺家でも、そうそうこちらを心酔させてくれるような名人がいるものではない。CDなどがよく売れるという落語家でも、落語を語ることそのものにおける芸とお笑いタレントをはきちがえているような人が多いようで、そういう人の高座は聞くに堪えない。落語が好きですという人は少なくない。床屋のおねえさんもすし屋の大将も、みんな落語は面白いという。ところが誰の噺が面白いですか、と聞くと飛び出してくる名前はそういうはきちがえ組である。司会業で抜きんでていたり、エッセイストやナレーターとして売れていたりというタレントばかりだ。そういう落語家の噺はなんだかてんぷらの衣だけ食わされたような気持になる。

 畢竟わたしは、この人の落語を聞こうという気になるハードルがけっこう高い、という落語好きなのだ。

 で、そういうハードルを越えた噺家の一人に古今亭文菊がいる。追っかけとまではいかないけれどもファンである。大学の後輩でもあるし、わたしが懇意にしてもらっている劇団の元役者でもある縁がきっかけになったのだが、そこにたまたま近所の人形町のホールを会場にして定期的に独演会が行われることも加わって、そこには毎回顔を出すことになった。

 前回の独演会は「茶の湯」「稽古屋」「甲府い」と、渋めの演目でまとめた文菊だったが、先日行われた会では「親子酒」「崇徳院」「藪入り」と、比較的メジャーな噺をならべて聞かせてもらった。

 まだ若い噺家をめぐって論じるというのは筋違いの気もするが、文菊落語の圧倒的な魅力はなにをおいても登場人物ひとりひとりがじつにリアルに描きわけられていることだろう。落語の世界には登場人物に類型がある。大店の主人、ご隠居、職人、奉公人、若旦那、与太郎などなど、それぞれにキャラクターが定まっている。落語家はそれぞれ自分なりのこうしたキャラクターを造形することで芸を磨いていく。たとえば「親子酒」の父親と「崇徳院」の旦那は、いずれも大店の主人という同じ社会的類型に属している。そして、たいていの落語家にとってこのふたりは同じ人物である。ところが文菊の落語ではこの二人はまったく異なる人間として造形されるのだ。これが文菊の落語の発想の根幹に演劇があることを感じさせる理由だろう。あたかもスタニスラフスキーシステムを導入した落語のように思えさえする。わたしはこういうレベルの落語を堪能したかったのだ、と思う。文菊の落語はいわば真正なコメディーの趣がある。

 次回の独演会は4月23日、日本橋社会教育会館ホール。