01-005 「塀の中のジュリアス・シーザー」

 ツイッターなどのウエブツールが発達してから映画や芝居の評判がすこぶる怪しげなものになった。早い話がサイトはサクラの花盛り。批判的な見解を主催者が消してしまうのは人情として理解できなくもないが、ヨイショの御用感想でささやかな報酬を得ようなどという輩がでてくるのはまことに始末が悪い。

 先日『塀の中のジュリアス・シーザー』という映画を見た。イタリアの刑務所で更生プログラムとして採用されている演劇実習をドキュメンタリー風に映したもので、サイトではたいへん評判のよい映画であった。本物の囚人たちがシェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」を演じるのである。これを見てわたしはどうしてもこの映画を褒める気にはなれなかった。囚人たちが迫真の演技をしているのが凄いなどと書いている連中が多いが、わたしの目には囚人たちはどれほどお世辞を塗りこめようと、ド素人の演技の域を出ていない。当たり前である。素人が演じるシェイクスピアが感動的だったら、プロの役者たちはどうしたらいいのだろう。顔だけは一所懸命にやっているが演劇としての身体性はまるで感じられない。

 映画は刑務所の随所で行われた稽古をつなぎ合わせて「ジュリアス・シーザー」全編のダイジェストが構成される趣向だが、そんな程度の発想なら映画学科の学生だっていくらでも思いつくことで、ちっとも独創的ではない。それに映画はその場面ばかりなので単調さをまぬかれえない。

 いちばん問題なのは、本物の殺人犯や組織犯罪者がシーザーの暗殺やアントニーの裏切りを演じる虚実ないまぜが凄いという感想だ。わたしは実体験がなければよい演技はできないという考えこそ演劇の最大の敵だと思っている。そんなことを言ったら人を殺したことがない役者には殺人の場面は演じられないということになってしまうではないか。

 また、刑務所で演劇をやるなんて凄いという感想も散見できる。これは無知である。とりわけヨーロッパでは演劇が受刑者におよぼす効果について研究と実践はかなり進んでいるのだ。演劇はこの意味ではセラピーである。セラピーはセラピーであってあくまでも芸術の二次的な応用にすぎない。通常の芸術とは一線を画すものだ。そういう性質のものをドキュメンタリー映画にするのは賛成できない。

 総じてわたしはこの映画が行っていることは演劇芸術に対する冒涜に近いと思うのだ。