坂口安吾「散る日本」3/3

 戦後の坂口安吾うつ病の薬が中毒になって体力的に衰える。闘病と執筆のすさまじい痕跡だ。エッセーもどこか論旨が切れていたり、飛躍が多かったりしてけっして明快なものではない。重要なエッセーはふたつ。ひとつは「チッポケな斧」。もうひとつは「風流」。いずれも敗戦から数年たった時代の文明論である。
 前者は空襲で壊滅して白紙の状態から債権を余儀なくされた日本が「旧に復する」のではなく、真に新しい社会を作るチャンスにあることを主張する。状況は東日本大震災後の日本とぴったり重なりあう。安吾は戦前の日本を支配していた天皇制による「真理のマンチャク(瞞着)」を打破することこそが戦後日本の使命であるとするが、現に行われているのはことごとく、その瞞着に盲従する者たちの復権でしかない、と看破する。
 安吾によれば投票による過半数を意思決定の原理とする民主主義も「真理」の反映ではない。こういう見解はおりしも昨日の朝日新聞で大野博人が次のように書いている課題を先取りしたものでさるとも言えよう。「富より負担を分配しなければならないとき、選挙で民意を問う代表制民主主義という仕組みはどうすればうまく機能するか」。私たちには答えはまだない。
 では、社会が基づくべき「真理」とは何なのか。安吾の思考はそれが生活原理としての「宗教的なもの」のなかにしか存在しないことに言及するが、同時にそれが政治の原理となることは困る、としたまま、突然、思考を中断してしまう。真理のありかは示されないままだ。
「風流」というエッセーは、日本人の生活原理を風流という概念に求めながら、それを批判しつつ、戦後の復興によって日本中に「醜悪きわまる」ものがあふれていることを嘆く文章である。すなわち「風流」とは、いかなる権力からも強制されれば無抵抗に盲従する庶民が、自らのアリバイを作る感性なのだという告発である。そして安吾にとって「風流」の反対概念は「文化」である。
「どうして、こうも悲しい国なのだろう。ただこれ強制に服する根性というものは、これ以下の弱者に対しては、ただこれ強制する根性なのだ。この一人二役ぐらい文化に距りあるものはないのである。己れとうものが本来空しいデクノボーが己れがある如くに振舞う時に何が起るか。国事は空理空論に支えられて、一人合点に、独裁政治の山上へ駆け登っていくだけのことだ」
 日本は残念ながらあいかわらず「悲しい国」だ。