坂口安吾「散る日本」2/3

 わたしはとりわけの安吾ファンではないのだけれど、衆議院も解散して総選挙へとなだれこんだ世相の風に吹かれていると、通りかかった古本屋の店先にならんでいた古い角川文庫につい手を伸ばして求めた一冊の本、それが「散る日本」だ。福島とだけ書けば世界中の人たちが分かるあの事故を「第二の敗戦」とみなす論調がひと頃あったが、それさえも風化しそうな昨今ではないか。そういうときにこんなものを読んでみるのも悪くはあるまい。いうまでもなく安吾を時代の寵児に押し上げたのは「第一の敗戦」にほかならなかったのだから。
 これは坂口安吾のエッセーを集めたものである。表題になっているエッセーは安吾ならではの将棋名人戦の観戦記、というか対戦者と一緒にしこたま飲んでしまっている酩酊記のようなものだ。これは面白いには違いないが私としては主題に惹かれるわけではない。また、初期の安吾の代表的な名エッセーにして、安吾文学の「マニフェスト」としても読める「FARCEに就いて」や「茶番に寄せて」はとても惹かれる主題なのだが、安吾一流の反芸術、反ヒューマニズムに基づいた「道化の精神」の称揚だと理解してみればそれで足りる。ちなみに安吾はこの精神に則った人生を誠実に歩むのだが、道化の嘲弄は絶えず自らにふりかかってくる刃でもあるので、そこが安吾の悲劇である。わたしが安吾を好きになれないのは、その矛盾の解決が示されないところだ。
 むしろ今回、発見したのは安吾の別の面である。「二合五勺に関する愛国的考察」という文章のなかにその魅力はつまっていうるように思われた。
 安吾は切支丹に対する迫害、拷問にふれながら、弾圧が荘厳な殉教を演出することで、かえってキリスト教信仰を勢いづかせたことに注目する。実際に長崎の浦上であった話だが、明治に入っても引き続き行われた弾圧の中で不思議な事が起こる。拷問には耐え抜く信徒たちがみな、食糧の欠如には耐えきれなくなって次々と棄教を申し出るというのだ。ところがその記録によると米の配給量は一日二合五勺。これは戦争中の日本人よりもはるかに恵まれた量だということに安吾は驚きを隠さない。
 安吾はここから戦争というものの性質に考えを進める。戦争がもたらす宿命観が日本人を窮乏に耐えさせたのだという。そしてその宿命観をかかえたまま、日本人は戦後を生き始めたと述べる。
 そしてさらに安吾の論理はひとひねりされる。安吾は窮乏に耐え抜く英雄的な身体よりも、空腹のために棄教する現実の身体を回復することに未来があることを説いている。「現実はかくのごとく不安定ではあるが、また、不逞にして、ぐうたらで、健康的なものだ。歴史は病的なものであり、畸形で、歪められているのである」。
 まさに安吾はここで国家や権力に対する抵抗の主体としての「民衆の身体」を発見している。
 坂口安吾における「身体」。これはきわめて刺激的なテーマではないか。