パロディ原論

 プロテスト・ソングについて考えている。有名な歌で高田渡が唄った「自衛隊に入ろう」というのがある。ネットではそれをさらに元歌にした「東電に入ろう」という歌を見つけることができる。が、これはよくない。どこが良くないかというと、パロディというのはメッセージだけの問題ではないからだ。くわしく言えばパロディをそれとして成立させるためには、オリジナルとの関係性が異化的に浮かび上がってくることが肝心だからだ。すでに諧謔に満ちた元歌をさらにパロディにすると、かえって元歌の諧謔が削がれてしまうのだ。何であれ二番煎じは興ざめだ。
自衛隊に入ろう」にはさるロックバンドのカヴァー演奏もある。これも見事に空振りしている。聴き比べてみるとすぐに分かるが、フォークソングでこそ見事に担える逆説や反語が、ロックになったとたんに消える。消えるとこの歌は、マジに聞こえてしまう。ましてや聴衆がぴょんぴょん跳ねながら手をたたいていたりすると、どうもロックというのは体には良くても、含み笑いの思考には悪いんじゃないかといまさらながら思ったりする。ロックでありながらプロテストであるために忌野清志郎があれだけ音楽を「よじる」必要があったことを思い出すべきだろう。
 ネットで、よいパロディを発見した。植木等の「日本一の無責任男」の歌をそのまま流し、画像は東電の幹部たち、というモンタージュだ。範とすべきはこちらの精神である。ただ合わせただけですよ、というアリバイもまた戯作者には必要だから。