自分が見えない

 アヴィニョン演劇祭を1947年に立ち上げたジャン・ヴィラールは、演劇をパリのブルジョワジーのための専有物にしない、という思想のもと、古典的な作品の民主化を図るべく国立民衆劇場を率い、その後も演劇改革の最前線をリードし続けていると自負していた。68年に学生を中心に5月革命が起こったとき、その夏の演劇祭を若者たちの闘争の場にしようと考えていたヴィラールは、街じゅうにあふれるシュプレヒコールに合流しようと外に出た。ところがヴィラールが耳にした叫びは、「ヴィラールやめろ!」という声だった。人間が自分自身を認識できないということほど恐ろしいことはない。
 昨日も金曜日の夜だったから、このところ毎週行われている脱原発抗議行動に何万人もの人々が集まった。これほどの騒ぎなのにマスコミが大々的に報じない、と参加者はさかんにテレビ局を批判している。なかでもNHKがニュースでちょっとだけ「会社帰りのサラリーマンらが集まりました」と、あたかも屋上ビアホールの解禁かなにかのように報じたのが、かえって脱原発派を刺激してしまったようで、目下、批判の矢面にはNHKが立たされている。これも自分が見えていないということだろう。
 昨日いちばん緊迫した場面は、参加者と警察の間の押し合いではなかった。抗議行動に駆けつけた坂本龍一の姿が首相官邸前に現れたとき、既存のメディアがそこに殺到したために、参加者との間でトラブルがあったのだ。
 私も(近所には居たのだよ)その場に居合わせたら怒鳴ったかもしれない。何万人もの大衆行動に対してこれほどの侮辱があるだろうか。メディアもおそらく自分が見えていない。