運動の光景

 高校生だったときの放課後、先輩数名に私は呼び出され、正義ある「運動」の後継者になれと説得された。吊るし上げられたのか、脅されたのか、はてまた見込まれたのか、その全部だったのだろう。そのとき先輩が語った「運動」は成田空港周辺の農民のために闘うことであった。
 私はひねくれていたので、1980年代に有効な闘争がもはやかつてのままではありえないことを、イデオロギーの形成が「資本」と「労働者」の拮抗にあるのではなく、メディアとその消費者の関係にあると論じて反論し、勧誘を拒絶した。高校でのその運動は爾来、断たれた。
 いかなる星のめぐりなのか、大学に入ると私は再び「活動家」の先輩たちから仲間になれと誘われた。けれども当時の大学を脅かしていたのは彼らの仮想敵である「アメリカ帝国主義」である以上に、各派さまざまなカルト教団だったので、プロテスタント系の学究的サークルで委員長をしていた私は、左翼活動家に檄を飛ばしながらカルト活動家を学外へ放逐する運動をやっていた。
若者と政治の関係が絶たれる場面に私は必ず居合わせた。