オッフェンバック『天国と地獄』〜神話からパロディへ〜 (立教大学「舞台は楽し」資料)

出典ウィキペディアなど(コピペです)

ギリシア神話
オルペウスは、ギリシア神話に登場する吟遊詩人であり、古代に隆盛した密儀教であるオルペウス教の始祖とされる。
日本語では、オルフェウス、時にフランス語での発音の影響から、オルフェとも表記される。
オルペウスの妻エウリュディケーが毒蛇にかまれて死んだとき、オルペウスは妻を取り戻すために冥府に入った。彼の弾く竪琴の哀切な音色の前に、ステュクスの渡し守カローンも、冥界の番犬ケルベロスもおとなしくなり、冥界の人々は魅了され、みな涙を流して聴き入った。ついにオルペウスは冥界の王ハーデースとその妃ペルセポネの王座の前に立ち、竪琴を奏でてエウリュディケーの返還を求めた。オルペウスの悲しい琴の音に涙を流すペルセポネに説得され、ハーデースは、「冥界から抜け出すまでの間、決して後ろを振り返ってはならない」という条件を付け、エウリュディケーをオルペウスの後ろに従わせて送った。目の前に光が見え、冥界からあと少しで抜け出すというところで、不安に駆られたオルペウスは後ろを振り向き、妻の姿を見たが、それが最後の別れとなった。

【見るな、のタブー】
鶴の恩返し(鶴女房)
浦島太郎
青ひげ
パンドラの箱

オルフェウス
(絵画)
・コロー、モローほか(画像参照)
(音楽)
グルックのオペラ「オルフェオとエウリディーチェ
オルフェウス (リスト) - フランツ・リストの交響詩。
オルフェオ - クラウディオ・モンテヴェルディのオペラ
・地獄のオルフェ - ジャック・オッフェンバックのオペレッタ。
オルフェウス (ストラヴィンスキー) - イーゴリ・ストラヴィンスキーのバレエ音楽

オッフェンバック

ジャック・オッフェンバックは、1819年にケルンに生まれる。1833年に、チェロの勉強をしに、フランスのパリへ。1848年三月革命を避けドイツに一時帰国するが、まもなく戻り、その後は終生パリに住んでいる。演奏の傍ら、作曲活動を続け、1850年にテアトル・フランセの指揮者になる。後の1855年には自らブフ・パリジャンという劇場を作成。いくつものオペレッタを上演、人気を博す。1880年に没するまでに幾度もの演奏が行われた。爆発的な人気と反比例するかのように、痛烈な風刺、退廃的な快楽主義は知識人からの批判も多かった。エミール・ゾラは「オペレッタとは、邪悪な獣のように駆逐されるべき存在」とまで書いているが、今日では第二帝政期フランスを代表する文化のひとつとして歴史的評価も作品的評価も高い。
(オペレッタ)
「地獄のオルフェ(天国と地獄)」(1858年)

「美しきエレーヌ」(1864年)

「青ひげ」(1866年)

「パリの生活(ラ・ヴィー・パリジェンヌ)」(1866年)

「ジェロルスティン大公妃殿下」(ブン大将)」

【地獄のオルフェ】
ブッフ・パリジャン座
1855年7月5日、オッフェンバックは当時パリのシャンゼリゼ通りのマリニー地区にあった見世物小屋ラカーズを買い取り、ブッフ・パリジャン座と名を変え、おもに1幕物のコメディーを上演する劇場としてオープンさせた。この劇場のオープンこそオッフェンバックにとってその後の成功の足がかりとなる。この劇場のオープンの日にさっそくヒット作が生まれる。『二人の盲人』である。この作品は二人の盲人を装った乞食が主役の滑稽な物語で、特に劇中二人が歌うボレロが人気を呼んだ。この作品の評判はチュイルリー宮殿にまで影響を及ぼし、オッフェンバックは皇帝ナポレオン3世との謁見を実現させただけでなく、のちにパトロンの一人となる皇帝の異父弟シャルル・ド・モルニーとも知己を得ることとなった。
ブッフ・パリジャン座は『二人の盲人』の成功と同年に行なわれたパリ万国博覧会の影響もあって大勢の観客がやってきたが、劇場自体が小さく手狭だったため移転をすることになった。同年12月29日にオッフェンバックはマリニー地区にあった劇場をモンシグニー通りに移す。以後現代に至るまで、ブッフ・パリジャン座はこの場所に残ることとなる。
 こうして順調に劇場経営のスタートを切ったかに見えたオッフェンバックだったが、彼には宿命とも言える問題がこの頃から発生する。それは金銭問題である。彼の目立ちたがり屋で派手好きな性格が、金に糸目をつけずに舞台を作るという経営方針を生んでいた。しかし当時、劇場や出版物の検閲を担当していたフランス内務省の劇場経営規則が障害となる。1855年6月4日に決められたこの規則によると、ブッフ・パリジャン座のレパートリーは、パントマイム(登場人物5人)、1場からなる舞台(台詞を言う俳優は4 - 5人のみ)、ダンスショー(ダンサーは6人まで)と限定されていた。また内務省の許可なくコーラスを入れることは禁じられていた。
当初この規則に従ったオッフェンバックだったが、1857年2月12日初演の1幕物『クロックフェール、最後の遍歴騎士』という作品で、この規則を逆手に取る。それは作品の登場人物の一人を「舌を切り取られて口がきけない騎士」という設定にして、台詞の代わりにプラカードを持たせたのである。台詞を言わなければ4 - 5人までにカウントされないので、6人の人物が舞台に登場することができたのである。さらにオッフェンバックは、親しくしていたモルニー公の助力を受けてこの規則の撤廃を働きかけ、ついに登場人物数、コーラスともに制限無しという条件を獲得することに成功した。1858年3月3日初演の『市場の女達』で大人数のコーラスを初めて導入した。

『地獄のオルフェ』
劇場規則から自由になったオッフェンバックだったが、劇場の赤字が解消されることはなかった。赤字解消にはヒット作がますます必要となっていった。そこで彼は、当時リヴァイヴァル・ブームが起きていたグルックの『オルフェオとエウリディーチェ』(ギリシア神話のオルペウスの悲劇)のパロディをテーマに、初めての長編作品を作曲することにした。エクトル・クレミューとリュドヴィック・アレヴィの台本は、グルックの作品に第二帝政期のフランス社会が抱えていた偽善性や矛盾の風刺をすることで当時の世相を取り入れ、本来は死んだ妻を愛するあまり地獄に赴くという感動的な夫婦の物語を、互いに愛人を作り、決して愛し合っているわけではないのに体面だけを気にして仕方がなく妻を取り戻しにいく、という偽善に満ちた夫婦の滑稽さを風刺した作品を生み出した。
こうして作品は完成し、1858年10月20日初演を迎え、大成功を収めた。翌10月21日付の『フィガロ』紙はこの成功を以下のように評した。
前代未聞 素晴らしい 見事としか言いようがない あかぬけていて 聴衆を魅了してやまず 気が利いていて とにかく楽しい 大成功だ 非のうちどころない 心地よく響くメロディ

オルフェ論争
こうして成功をおさめたオッフェンバックだったが、作家フローベールや批評家ジュール・ジャナンのように作品を非難する人々もいた。特にジャナンは、特に劇中の登場人物「世論」の大仰な物言いがいわゆる知識人への当てこすりであると受け止め、痛烈に作品を非難した。これに対して、作品の脚本家クレミューが『フィガロ』に反論を載せたため、論争に発展した。このいわゆる「オルフェ論争」は、パリ中にセンセーションを巻き起こし、話題の作品を観ようと多くの人々が劇場にやってきた。結果として、作品はオッフェンバックと作品の名声を高めることとなった。

<あらすじ>
【第1幕】
 時は神話の時代、舞台は現世と冥界。竪琴弾きのオルフェオは、愛する妻エウリディーチェを亡くし……と始まるところですが、ここでは少し違います。音楽院の院長オルフェとその妻ウーリディスは、すでにお互い愛想を尽かしており、二人とも浮気相手がいるくらいなのです。
 オルフェは妻の浮気相手が毒蛇に噛まれるように罠を仕掛けます。妻ウーリディスは恋人に気を付けるように言いますが、毒蛇に噛まれたのはウーリディス自身。でも、ウーリディスの恋人は実は地獄の大王プリュトンだったので、これで晴れて二人で地獄に行けると大喜びします。もちろんオルフェも妻がいなくなって自由を謳歌できることを喜んでいました。
 けれど、そんなに世の中、甘くありません。「世論」はオルフェに対し、妻を取り返すべきだと主張します。オルフェはしぶしぶ世論といっしょに神々の世界へと旅立ち、神々の王ジュピテルの前で、嫌々ながら妻を返してほしいと頼むこととなりました。その嘆願を聞いた神々とオルフェは地獄に行くことにします。
 
【第2幕】
 地獄でウーリディスは退屈していました。なぜなら、地獄の大王プリュトンが、神々の王ジュピテルに彼女を取られないように、一室に鍵を掛けて閉じこめておいたからです。そうです。実は神々の王ジュピテルも大の女好き。美人だと噂のウーリディスをひそかにものにしようと企んでいました。
 地獄に着いたジュピテルは、愛の神キュピドンに命じて自分を蝿(ハエ)の姿に変身させます。そして、鍵穴からウーリディスの部屋に侵入したのです。退屈していたウーリディスにとっては蝿でも何でもかまいません。二人は地獄から神々の世界へと脱出しようとします。
 その二人をプリュトンが止めようと三角関係の争いをしていた矢先、そこに世論に伴われたオルフェが現れてしまったのです。そこでジュピテルは、現世に辿り着くまで決してウーリディスのことを振り返って見てはならないという条件付きで、夫婦を帰してやることにします。
 妻を愛する夫なら必ず振り返ると思っていたのですが、オルフェオはなかなか振り返りません。そこでジュピテルは雷をオルフェの背後に落としました。びっくりしたオルフェが振り返ると、ウーリディスは再び天に召されて、誰もが喜ぶ結果となったのでした。