舞台『破産した男』ダヴィッド・レスコ作 (あうるすぽっと)

とんぼ:これは、私は全然評価しないよ。作品の翻訳にも立ち会っている関係で、ちゃんとしたことが言えると思うけど、この作品を素材とすれば、これをどう料理して「演劇」にするか、その方法が間違ってる。
メガネ:蕎麦にミートソースをかけちゃったようなものか?
と:まあ、そういうことかな。まず、作品の軸がいくつかあるわけだ。ひとつは、破産した男と、管財人との関係性の変化。また、男と女の関係の変化。そういう「関係性」があまりに平板だ。これがまず指摘すべき一点。第二に、男の想像力の中の出来事として起こる、自分がどんどん小さくなってミクロの存在にまでなっていく、というエピソードをどのように現実と関係づけるかという設定。俳優がただ身を捩じらせて語っても、演劇的には何も意味がない。現実との関係性に配慮がないわけだ。これが第二点。
メ:分かった。この作品を上演するという営みは、何をさしおいても、その作品の軸に対しての解答を出す作業でなければ意味がないってことか。
と:そうだ。照明はきれいだった。音響もいい音だった。舞台装置もきれいだったけど。そんなことはどうでもいいんだ!退屈だった!
メ:じゃあ、どうしたらいいんだい?
と:たぶん、現代のフランス演劇は、テクストと身体だけを舞台空間に「生」で差し出しても、それだけでは何も起こらないようになってるんだ。そこがイギリスの作品やドイツの作品とちがうところだろうな。大雑把だけど、イギリス作品は「生」のままで、ズブッとテクストと身体を出せる。言い換えれば演劇に「なってる」んだ。ドイツ作品は両者が別のコードで独立している。演劇「でないもの」なんだ。フランス作品は常に補助線を演出家が引いてあげて、はじめて演劇に「なる」ものなんだ。
メ:なるほど。そこに独仏はドラマトゥルクの仕事領域があるということか?
と:そう言ってもいい。純然たる演出家にはその作業は難しいのではないか?