長谷川伸『ある市井の徒』(中公文庫)


とんぼ氏:この本を読むのに、けっこうな時間がかかってしまったよ。とにかく読みにくいことこの上ない。欧文脈でもなければ、古典的な和文脈でもない。奇妙に主語述語をひずませながら絵巻物をひろげるようにつながっていく情景の展開にはまったく閉口した。
メガネ君:こういうのを講談調と言うのさ。
と:でも、喋るためのことばではないよ。明らかに書くための文体、エクリチュールだ。長谷川伸の戯曲は、なにしろあれだけの大衆性を獲得しているだけのことはあって、リズミカルで平易なものだけれど。
メ:で、内容的には得るところがあったのかい?
と:それは微妙なところだな。作者が大工の家に生まれて、母と離れ、父の商売がつぶれてから煙草屋の店番として働き始め、それから港の職人の世界に入り、紆余曲折あって新聞記者になるまでの人生が、エピソードの連続で綴られているわけだが、ただそれだけの本に過ぎない、と言ってしまえばそれだけだからな。
メ:日本の近代と無縁の怪物、とか、この前言ってたじゃないか。
と:それはその通りだと思うし、考えを改める気もない。しかし、本当にどう評価すべきなのか、難しいなあ。単純なノスタルジー、つまり「江戸」への回帰ではないからね。
メ:「江戸」と私たちが思っている世界は、あくまでも明治以降の近代が、自らの反対側に表象した「江戸」に過ぎない。
と:その通りだ。長谷川伸の描く世界は、「江戸」ではない。事実、それは伸が幼年時代を過ごした明治の職人の世界なのだからね。しかし、それは明治近代からも抹殺、放逐された世界であるがゆえに、近代にも江戸にも存在しない世界なんだ。
メ:オルタナティヴな世界だな。
と:と言うか、事態はもっと複雑で、日本の近代が抑圧してきた「無意識」のような部分なんだろうな。だから、一皮むけば今でもすべてはその無意識によって衝き動かされている。
メ:とりわけ、企業でも行政でも、今でも私たちはこの倫理観にしたがっている。
と:今後も考えないと名な・・・日本人には扱えないテーマかもね。外国人の日本文化研究者の手で「長谷川伸論」が書かれないものかな。