『朱雀家の滅亡』 新国立劇場

とんぼ氏:新国立劇場三島由紀夫作『朱雀家の滅亡』(宮田慶子演出)を見た。長い作品を、やや暗めの舞台でじっくり語らせる、という手法だったね。それぞれに季節が違う4幕構成なんだから、もうちょっと変化があってもいいのかなと思うのは、私の好みかね。
メガネ君:「滅び」という表象をどう作るかだな。
と:そうだな。ひとりさびしく滅んでいくのか、それとももっと違う、華やかな美学があるのか。三島の美学は後者だろうけど、作品的にそうであってよいかどうかは課題だな。
メ:こっちはもう、震災・原発がトラウマだな、何を見てもそのメタファーとして受け止めてしまう癖がついてるんだがね。『朱雀家の滅亡』だって、帝国陸軍=戦後経済界、と読み替えてしまえば、あとは自動的にその暴走によって原発を作ったがゆえに滅んでいく日本、という物語になる。主人公の華族は、天皇の無言の悲しみを背負って日本とともに滅んでいくわけだが、それも原発とともに滅ぶしかない私たち、と読んでしまう。さすが三島だ、井上ひさしの「夢の三部作」よりもはるかに深いところを直観でつかんでいる。プログラムに一文を寄せていらっしゃる野口武彦さんも、やはり3.11以降のまなざしでこの作品を読むことの意義を書いていらっしゃる。
と:そういうふうに見えちゃうなら仕方ないけどね、ずいぶん悲観的な読みだな。
メ:そりゃ三島がエウリピデスの『ヘラクレス』を下敷きにして書いた作品だからね、悲劇なんだよ。
と:話は演技論になるけど、今回のようにテーブルの周りですべてが進行する、ほとんど動きのない演出だと、三島の朗々としたせりふをどういう「声」にするか、そこに舞台の成否がかかっているな。どう思った?
メ:役者たちか。ベテラン國村隼は文句ないし、香寿たつきもすばらしい。ただ、やっぱり若い2人には三島の文体は荷が重いのかなあ。戦前の憂国の青年と、彼を慕う女子高校生。それぞれ、人物を体現している「声」になってないような気がするんだな。無理かなあ・・・
と:最終場はもっと「狂気」がほしかったなあ。滅びろ、と糾弾されて「私は滅びない、夙(とう)のむかしに滅んでいる」という最後のせりふ。あれは謎めいてるんだけれど、その「謎」を作品の決着点としてほしくないんだ。
メ:あれは、捨てぜりふとして響かないといけないんじゃないか?
と:そうだろうな。今回の演出はそうはなっていなかったな。