ショパンの生涯をめぐって(2)

ショパンは39歳で生涯を終えていますから、21歳の1831年にパリに出てきてから、残りは18年間です。これはちょうどフランスの政治史としてはほぼ7月王政期に重なっています。ショパンの後半生はジョルジュ・サンドとの恋に彩られますが、その関係は1838年から始まります。しかし、じつはその前にショパンにとって決定的な出来事があります。幼少の頃の姿を知っていたポーランドのヴォジンスキ家のマリアとの再会です。ショパンはマリアに求婚します。けれども、ショパンが病弱である(結核)ことを理由に、二人の仲は引き裂かれます。ショパンはマリアにノクターンの20番として後に知られる曲を捧げます。
 これは聞いてもらいたいので動画を貼ります。

曲想にこもる異常なまでの悲しさがいかなる事態の結果なのか、分かるような気がします。サンドとの関係も、この悲しみを忘れるためのものだったのかもしれません。ショパンの精神的なトーンは、サンドとの関係よりも、どうしてもマリアとの破局に支配されている、というのが私の勝手な説です。
 サンドとの関係は7年くらい続きます。いきなりマヨルカ島へ2人で旅行したり、ノアンという村(サンドの実家ですが)とパリを往復しながらの生活が始まります。それなりに幸福だったでしょうし、創作的にも充実するのですが、サンドとの生活のなかで意見の対立も起こってきて、だんだんすきま風が吹くようになります。詳しくは小沼ますみさんの『ショパンとサンド』あたりをお読みください。私としてはここには立ち入らずにおきます。
 ノアンのサンドの館は全日本ピアノ指導者協会のHPを貼りますから見てください。(http://www.piano.or.jp/report/04ess/prs_cpn/2008/12/12_7452.html
 そしてショパンは決定的にサンドとの関係を解消した後、結核の病状を悪化させ、また活動の場をロンドンへ求めるのですが挫折してパリに戻り、息を引き取ります。
 さて、「ショパンさんには歌がない!」というフレーズを掲げてみたのですが、じつは、それは嘘なのです。ショパンは生涯を通して19曲の短い「歌曲」を作っています。いずれもポーランド語の詩に曲をつけたものですが、これがショパンの生涯のさまざまな結節点に、ひとつひとつ作られているものですから、ショパンの生涯をたどるのにたいへん重要だ、という着眼点が生まれます。ショパンに関する多くの著作を書いていらっしゃる小坂裕子さんも、そうお考えで『ショパン 知られざる歌曲』(集英社新書)という本を上梓されています。
 ショパンの歌曲はすべてYou tubeでChopin Songsという検索をかけると聞くことができます。
 次回はショパンの歌曲の感想を書きます。

 参考文献

ショパン (作曲家・人と作品シリーズ)

ショパン (作曲家・人と作品シリーズ)