ショパンの生涯をめぐって(1)

替え歌だけ作って、ショパン本人に敬意を表さないのも失礼なので、ショパンの生涯をおさらいしてみようと思います。ショパンというのはChopinと書きますからフランス語風です。生まれ故郷のポーランド語ではショペーンという発音らしいです。お父さんのミコワイがフランス人です。ポーランド貴族の領地だったフランス農家(ロレーヌ地方)の出なのですが、とても聡明なので領主様がポーランドに連れてったのです。そこで教養をつんでフランス語の教師になった人です。そのミコワイと元貴族の血を引く母ユスティナの間にショパンは生まれました。4歳からピアノを習い始めて、めきめき上達します。そりゃ大作曲家ですから、そういうものです。とくにポーランド民謡をベースにした即興演奏が得意だったというところが特徴的ですし、周囲もそういう方向でショパンの才能を伸ばしたのが良かったようです。
 ポーランドでは早い頃から有名なピアニストとなり、いよいよヨーロッパの大都会へデビューしようとします。最初はウィーンでした。演奏会は成功するし、サロンでも評判なのですが、この頃のショパンの中心的レパートリーであったマズルカがどうもウィーンに受け入れられないのです。1830年、ショパンは20歳でした。結局、不安を抱えたまま埋没してしまいます。
 この翌年にエチュード「革命」が作られるのですが、この時代のポーランド史を知っておくと、ショパンのその後の人生が理解しやすくなります。
 ナポレオンが失脚したあとのウィーン会議で、ポーランドはロシア皇帝を元首とするポーランド立憲王国(会議王国)となります。多くのポーランド人が国外、特にフランスに亡命しました。この人たちのパリでの社会にショパンは後に溶け込むことになります。そして、そのロシアに対する反対運動が起こり、1830年、ロシア帝国からの独立および旧ポーランド・リトアニア共和国の復活を目指して「十一月蜂起」が起こります。ところがこの蜂起をヨーロッパ各国が支持しなかったのです。そこでロシアは翌年、一挙にポーランドに攻め込んでこの運動を鎮圧します。ショパンはこのロシアの介入によって、自分の友人や家族の命危うしと感じて、あの曲を書いたのです。だから、あの曲は「革命の敗北」の曲なのです。
 で、ショパンは次なる飛躍の場をパリに求めます。本当はパリ経由でロンドンに向かうつもりだったらしいのですが、結局ご存知のようにショパンはパリに活動の場を定着させます。面白いのはこの頃、友人がショパンの大作曲家としての才能を買って、ぜひオペラを作曲するように勧めていることです。ショパンはピアノだけで精一杯だと返事をしたらしいのですが、このときにショパンがオペラを作曲する気になっていたら、どんなオペラが生まれていたことでしょうか。
 パリでのショパンは主に貴族のサロンでピアノを弾きながら、ご婦人方やその子たち(優秀なピアノ奏者のみ)へのレッスンをして生活します。ピアノ教師としても抜群の腕前だったらしく、とうとう大富豪ロスチャイルド家のサロンでピアノを弾き、娘のシャルロッテ、さらにその娘のマチルドを弟子にして、生涯にわたる関係を持ちました。「練習曲」は実際にショパンのピアノレッスンの必要性から作曲されたものです。
 ショパンもしだいに裕福になり、作曲家のフランクの豪華なアパルトマンを借りて住むようになりました。