【書評】ディヌ・リパッティ 畠山陸雄

少し以前にラジオから流れてきたバッハのパルティータの演奏に惹きつけられて、私はリパッティを発見した。それはどこまでも深く、優しく、しかも「素朴で、献身的で、沈着」であった。ピアノによるバッハの代名詞のような存在のグールドでさえ、はたしてリパッティを超えているであろうか、とそんな思いも脳裏をよぎった。
 リパッティのことをもっと知りたくて評伝を読んだ。声を大にして言うが、これは翻訳書ではない。日本人の手によるオリジナルの書物なのだ。そして調べうる限り、この20世紀前半に活躍した、夭折の天才ピアニストについて書かれた唯一の評伝である。筆者はピアニストの生涯と交友関係をていねいにたどり直し、両大戦間のヨーロッパの音楽界を浮き彫りにしている。たいへん分かりやすく奥行きもある好著だ。
 もちろん私はリパッティについて多くのことを教えられて有益だった。リパッティがルーマニアの出身であること。少年時代から一流演奏家の仲間入りをしていたこと。きわめて厳しい音楽教育を受けたこと。そしてもうピアニストとして完成していたのにパリ音楽院でコルトーの弟子となったこと、などなど。33歳で早世するに至ったリンパ腫、敗血症との闘病の様子も胸を打つ。録音も残っている死の直前のリサイタルなど、開演前に意識がなかったなんて壮絶すぎる。
 私にとって最も面白いと思われたのは、リパッティと、これまた夭折した女性ピアニスト、クララ・ハスキルが深い愛情で結ばれていたことだ。今後はハスキルの側からも検証してみたいが、これは芝居か映画のネタにうってつけではないかと、下心がないわけではない。ピアノの天才同士が出会って意気投合し、深く語り合い、愛情を抱くが、二人のピアニストとしての生活が結婚を許さない。そしてお互いを遠くから見守りながら、リパッティが死に、ほどなくハスキルも死ぬ。通俗の極みと冷笑を買うかしれないが、愛と芸術に病を加味して新味となれば。
 それはともかく、本書で西洋音楽演奏の黄金時代ーレコード録音の進歩はかろうじてその黄昏をつかまえたに過ぎないーに思いをはせたのは幸せな体験だった。

ディヌ・リパッティ  伝説のピアニスト夭逝の生涯と音楽

ディヌ・リパッティ 伝説のピアニスト夭逝の生涯と音楽